2019年03月14日

10月20日 大鹿村(長野)10504ー10558

再び、種蒔きの旅のつづきです。

昨年10月20日、先日紹介した「部族」が住んでいた大鹿村で、まず訪ねたのは「ふりだし祭り」。祭りは願っても無い種蒔きのチャンスです。10504番〜10550番を種蒔き。
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この日、心配なことが一つありました。ガス欠です。田舎なので、ガソリンスタンドも少なく、時間制限もあります。スマホで調べると、翌日は日曜で全てのスタンドが休み。時計を見ると、その日の営業時間もそろそろ終了。

今のうちに入れとかなきゃ!と思っていると、一人の男性がタネの箱に近づいてきました。選んでもらって、差し上げて、記念の写真撮影も忘れてそそくさと片付けつつ「すみません。もう店じまいです」というと「何かあったんですか?」「ガス欠で、明日は休みだし、今の時間にガソリン入れるしかなくて、、」「うち、ガソリンスタンドやっています」「え?!」「明日、お店開けましょうか」え、この偶然、その優しさ「ありがとうございます」

やれやれ、これでガソリンの心配はなくなった。しかし、今度は雨が激しくなりました。外に繋いでいた五郎八を車に入れてやらねばなりません。五郎八を連れて車に向かいました。1、2キロ下った所に車があり、ぬかるんだ山道は歩くのも難儀。やっと車に入れて再びヌルヌルベチャベチャの山道を登ります。「こんな日に限ってなあ、、雨が降らなくても、、、」と愚痴っていると、子供連れの女性の車が止まって「乗って行きますか?」何という優しい言葉。

再び会場に戻ったのですが、くだんのガソリンスタンドの男性と車に乗せてくれた女性が親しそうに話しています。この二人は夫婦だったのです。僕を助けてくれるために別々に登場したご夫婦。不思議な巡り合わせ、感謝感激!

車中泊して、翌21日早速ガソリンスタンドに向かいました。明るくて元気のいい奥さんが待っていました。この日は部族に関わった内田ボブさんの家にアポ無しで行く予定でした。しかし、家がわかりません。奥さんに相談してみると「寿満子さんが知っているかもしれない。『大鹿歌舞伎』の会場近くでコーヒーを販売しているから、行ってみたら」と。10551番を差し上げて「ありがとうございました。感謝します」皆さん!大鹿村に車で行ったら、ぜひECONOSへ!
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原田芳雄主演で「大鹿村騒動記」(2011年)という大鹿歌舞伎が絡む映画があり、たまたまその映画をテレビで見ていました。「あの、撮影現場がここだったのかあ」と意外な場の出会いにびっくり。しかも年に一度の歌舞伎上演の日とは。会場には続々と客が詰めかけていました。残念ながら、見る時間はなくて会場を後にしました。目指すはボブさん。
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会場へ行く坂道の一角にお店がありました。寿満子さんに10552番。無農薬栽培・循環型農法のグアテマラのコーヒー豆の輸入販売をしている方でしたが、あとでわかったのは、意外にもななおさかき氏と親しかった田村正信さん(通称アキさん)の奥さんでした。
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道を聞いて、早速向かいました。すると、遠くに雪山の見える眺めのいいところに出ました。
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石碑が建ってしました。「ウエストン顕彰碑」
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ウオルター・ウエストン(イギリス人宣教師)は釜沢奥で湯宿を管理していた老人から、心からのもてなしを受けたことに感動し、「その一生を日本の最も辺鄙な谷間で送った無学な野人であるが、これほどの真の意味での紳士を日本の内外で私は見かけたことがない」と。

「真の意味での紳士」が存在する大鹿村。自然美が存在するところだからこそ、心も磨かれるのかもしれません。そして、部族の人たちを引きつけた原因もそこにあるのか。誇張でなく、本当にこの辺の風景は絶景でした。

さらに、雪山が近づきました。
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番地でなく、地名と道だけの指示(この辺はみんなそう)だったので、迷い迷って最後は急な坂を行ったり来たりの難儀な運転でしたが、やっとそれらしき人が目に入りました。遠くから声をかけると、内田ボブさんの奥さんの遠野さんでした。
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10554番を。
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古いけれども、とても和むお家でした。生憎、ボブさんはナーガさんと1ヶ月のツアー中でした。
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遠野さんは様々な野菜類を栽培していて、種や植物の話題で話が尽きません。
頂いたタネの一つがこれです。色とりどりの粒が大きな容器に入っている様子は実に美しく、これほど種が美しいと感じたことはありませんでした。
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名前は「クレナイアカザ」昨年、台湾を旅行した際に食し、手に入れた種だそうです。台湾原住民の伝統的食品であり準主食、遠野さん曰く「ソウルフード」米に混ぜて食べるそうです。赤っぽいご飯になり、米の何倍も栄養があるとか。葉っぱもほうれん草より美味しく、他の葉物が要らないほどだそうです。
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この地(標高1000m)では種蒔きは4、5月、収穫は9月末ー10月。肥料は堆肥を少し。天日で乾燥させると、虫が出てくるので、取り除くそうです。畑の一列だけ栽培して大きな器に二杯分取れたそうですが、粒が小さいのでこの量の作業をするのは大変だったでしょう。ただ、種の美しさに見惚(みと)れていると、やってしまうかもしれませんね。実際、この植物には癒されるそうです。

畑に落ちていたクレナイアカザ。
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さらに、この黒々した種は「ブラッククミンシード(黒種草)」2、3粒噛んでみると、とても上品な味が口の中に広がります。これも台湾からのもので、花はブルーバイオレットで、これもとても癒されるそうです。オイルにもなり、イスラム教を開宗したムハンマドが「死以外のあらゆる病を癒す」と絶賛したと言われます。
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他にも、カボチャ、キュウリ、シソ、アイ等々の種をたくさん頂きました。
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そこへ、息子さん夫婦が来られて10555番と10556番を。
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24日、再び、ガソリンスタンドで給油に行くと今度は旦那さんがいました。このご夫婦も移住組ですが、田村夫妻に栽培方法を学んだとか。田村夫妻の家を教えてもらい、田村家に向かいました。
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車で急な山道を上ると、山の頂上近くにやっと田村家が見えてきました。
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田村さんは、部族関連の以下のページに出てくるアキさんのことです。
http://konohoshi.jp/special/nanao/index05.html

こんな記述があります。
『アキさんの本名は田村正信(たむら・まさのぶ)。1947年、広島生まれ。原爆2世である。 1967年、20歳の頃、アキさんは広島の家を飛び出して新宿でフーテン生活に入る。そこで耳にしていた「雷赤鴉族」へ行ってみることにしたのだった。

「名前を聞かれる前に、『腹減ってるか?』っていわれてね。そこで雑炊を食べさせてもらったんですけどね。まあ、そういう世界を初めて知ったわけです。こんな人たちがいるんだってね。感動したっていうのかなあ・・・」』(転載終わり)

名前を聞く前に「腹減ってるか?」って、すごいですよね。私の体験上では、こういう接し方って、ヒッピーとか部族とか自給自足者とか、浮浪者とか、ホームレスとか、、、そういう人たち独特のもののような気がします。無論、与えるものさえない場合もありますが、何かあれば「あなたにもあげるよ」という優しい姿勢があります。底辺を知っているからこその優しさのような気がします。「氏素性なんてどうでもいいんだよ。食ってけ!飲んでけ!泊まってけ!」

田村さんが近所の移住者郷路さんを呼んでくれて、3人で楽しい種交換。10557番〜558番。
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田村さんからはパン用の南米トウモロコシやタイのピーナツなど、頂きました。
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この日の様子は以下にも書きました。
「宇宙人と自給自足者」
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/462368970.html




【関連する記事】
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2019年03月11日

あの日、そして今後

今日は東北大震災の日ですが、私は2011年3月11日は千葉県の神崎町に岩澤信夫氏を訪ねていました。不耕起冬期湛水栽培を学ぶためでした。しかし、岩澤氏はその頃病気で外には出られなかったので、5、6人の皆さんと田んぼで作業をしていました。

突然の地震にびっくりしましたが、広い田んぼの中では恐ろしさはほとんど無く、それよりその揺れ心地を楽しんでいたくらいでした。地震国日本においては、広い平地でしかも平屋に住んでさえいれば、たとえ大地震があっても死ぬことはないだろうということを学びました。何も落ちてこないし、ただ揺れるだけなのです。

呑気にしていたのは私だけでなく皆さんそうでした。しかし、静かになって周囲を見回すと、水路には魚は浮いているし、道路に1センチくらいの亀裂が走っていました。あとで震度は5強くらいだと知りました。皆さん携帯電話が繋がりません。意外にも一番遠くから来ていた私がダメ元で電話すると島根につながり、母が出たので「テレビを見てみて」と言って、やっと東北で大きな地震があったことがわかったのです。

ラジオ、テレビの無い田んぼの中では、どのくらい大変な地震なのかがわからず「とにかく明日の祭りは止めるか」みたいなことになって、皆さん家に帰りました。

それでも数日間は千葉県内にいたものの、その後「原発爆発、放射能漏れ」ということが起きて、とにかく遠くへ行こうと思い、島根に逃げ帰りました。しかし、逆に被災者を助けるために東北地方に向かった人がいることを知って、複雑な思いでした。

しかし、どうなんでしょうか。原発が爆発するとどれほど危険なのか、この事故が起こるまではほとんどの日本人は知らなかったと思います。政府は何キロまで危険だからと、危険区域を決めますが、それは信じるに値するでしょうか。最近のニュースのように、政府が改ざんしたりする様子を見ていると、余計に政府のいうことは当てにならないと思います。

とにかく、現実的にどういう放射性物質がどのくらいの量、どこに行くのかはっきりわかりません。無臭無色なので、人間の感覚ではわからないものです。せめてガイガーカウンターがあればいいですが、当時一般人で持っている人はほとんどいなかったと思います。そういう状況下では、とにかく近づくことは危険だったと思います。しかも、場合によっては放射性物質を車、あるいは自ら体に付着させてしまい、拡散する可能性もあります。

先日、テレビで放射線を浴びた人を救う医師が存在していたことを知りました。当時、専門家である彼らでさえ、試行錯誤してやっていたことが伺えましたし、場合によっては自分の死を覚悟してやっていたのです。「本物の医師だなあ、そういう人もいるんだ」と感心しました。

医師が息子に宛てたメールへの返信です。

「死の覚悟を持って福島の地に赴かんとする父を誇りに思います。幾多の苦難を乗り越えてきた父上 必ずや責務を全うされることを信じます。どうかご存分の働きを」

まるで特攻隊員さながらです。しかし、そういう医師達にしても、ガイガーカウンターで高い値が示された場所には近づいていません。これからの時代、何が無くても放射性物質の量を測る機械を持つことは、重要ではないでしょうか。もし、たとえ被災者を助けに行こうと思う人も、それがあることで、どこまで行けるか、被災者をどこに避難させねばならないかを知ることができます。

私は世界中にでも種を蒔いて歩きたい人間ですが、放射性物質があるようなところにまで踏み込んで人を助ける勇気はありません。しかし、あなたがもしそういう人ならば、是非とも今から質のいいガイガーカウンターを一つ持つことを勧めます。たとえ助けに行かなくても、自分や家族を安全な場所に逃がすためにも必需品です。

いまだに福島の原発の処理は終わらないし、終わるかどうかもわかりません。しかも、日本には原発は50箇所以上もあり、そこには同じように危険な放射性物質が多量にあり、さらに中国は40基近くあり、100基を目指すと言われます。事故が起これば、風に乗って風下の日本にやってきます。全世界では400基以上。小さな島国日本にその10%。何で、そんなことに怯えなくてはならないのか、と憤りますが、それが現実ですし、人類が抱えてしまった課題です。

私と旅を共にしたガイガーカウンター。現在地 0.08マイクロシーベルト。
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2019年03月10日

七田さんの番組を見逃した方はネットで

先日の七田さんの生活ぶりを紹介した番組をネットで見ることができます。ただ、七田さん本人からの話では「自分は新聞社で働いたこともないし、蛇は常食していない」ということなので、その辺はマスコミの身勝手な見せ方なので、ご了解ください。
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2019年03月08日

部族誕生の歴史、そしてヒッピーの子供はどうなったか?

昨夜の番組:七田さんの後に紹介された2mのワニと生活する夫婦に圧倒されて、七田さんの印象が薄れましたね。ちょっと残念でしたけど、七田家族は羨ましい生活ぶりでした。しかし、ワニが人間にあんなになつくとは本当驚きました。ワニにも心があるのかなと思わされました。生物、皆兄弟!共存共栄。

先日の部族の話は多くの人の共感を得ましたが、私もこの数日間、部族やヒッピーについて調べていました。興味が尽きず「面白い時代だったなあ」とつくづく感じながら読んだり、聞いたり、見たりしてました。当時はネットもスマホもパソコンもなくて、今から比べると相当に不便ですが、それが逆に人間を鍛えている感じがします。何でも手探り、自分の手と足で実感していく世界。失敗が多くて、失敗で鍛えられていく時代。時代が時代だったこともありますが、とりわけ部族の人たちは、正直にストレートに生きてますね。

部族に関わった人の中で通称ポンさん(山田塊也・1937〜2010)が当時のことを詳しく書いている文章がありましたが、長文なのでそのサイトを紹介します。ポンさんの青年期の略歴は以下です。
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               ポンちゃん
「私はアメリカが大麻禁止令を定めた1937年に飛騨高山に生まれた。金持ちのボンボンだったが虚弱体質で、日本が大麻取締法を定めた1948年に、結核性の脊椎カリエスを患い、2年後にやっと死線を脱出したが「せむし」というフリーク(障害者)になっていた。

 山田家は戦争で財を失い、道楽者のオヤジは無能、オフクロの行商で一家6人が食いつなぐ状態だったので、長男の私は高校を一年で中退し、地元の製陶所で3年間も茶碗の絵を描いた。21歳で京都へ出て、友禅染のデザイン会社に2年、合計5年間も職人的サラリーマン生活をやった。退職金2万円はパチンコで一日でスった。」(転載終わり)

その後、画家を目指し、ドロップアウト後、波乱万丈のヒッピー生活が始まります。似顔絵描生活、島生活、様々な人間交流、日本初の大麻栽培や日本初のLSD体験、NHK他のマスコミ報道、ベ平連、ななお関連などなど笑いと涙のエピソード盛りだくさん。以下のページへ。

ヒッピームーブメント史 in ヤポネシア
http://amanakuni.net/pon/hippie/

第1章 ヒッピー前史 
第2章 コミューン運動「部族」の発足 1967 
第3章 ヒッピーブームの中の「部族」 
番外編 追悼ナナオ論 〜 ナナオ「カミガミ革命」はどうだ? 
第4章 昭和元禄のサイケブーム 1968 

ポンさんのことを調べたら、ポンさんの娘さんが津軽三味線、尺八と唄、民謡太鼓等用いて家族で演奏活動していることを知りました。その娘「宇摩」さんのインタビュービデオがありました。ヒッピー親父をどう見たか?ヒッピーの子供としてどう生きたか?学校に行かずに遊んでばかりいるとどうなるか?逆に親になり、学校へ通う子供の膨大な宿題にどう対応したか?震災の時どうしたか?これからの理想の共同生活についてなど、生まれついてのヒッピーチルドレンならではの視点。面白い体験談の数々です。

宇摩さんのインタビュー


子供たちと演奏の様子





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2019年03月07日

訪問先がテレビに出ます!

2017年4月26日に訪問した七田家族がテレビに出ます。
自分で設計施工した家に住む七田さんご一家の様子。
場所は栃木県日光市

隣家の無い田舎の一軒家の生活、自給自足の生活に興味がある方は必見です!

このブログの訪問時の日記は以下のページです。
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/449838392.html

地上波 テレビ東京
放送日時 3月7日(今日) 18時55分〜19時53分
「突撃!しあわせ買取隊〜仰天ハウスに泊まってみました〜」
(自給自足の手作りハウス)

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2019年03月03日

部族

次に紹介する種を蒔いた訪問先は長野県大鹿村です。馴染みのない人には、初めて聞く地名でしょうけど、知る人ぞ知る地名です。私も旅立つ前は全く知りませんでした。この地名を知ったのは旅立って1ヶ月後の2015年3月、島根県の出雲市在住の青木さんに出会ってからです。青木さんは一日中火の番をして肉をスモークして、販売している人ですが、その仕事の発端は火が好きだからです。火が好きな原因は、火山が大好きで実は火山冒険家でもあります。

その青木さんが最初に取り憑かれた火山は鹿児島の諏訪之瀬島でした。大学のサークル活動でその島へ行ったのをきっかけに、一人その島に残り自ら掘っ建て小屋を建て、その後10年間も火山観察を続けたのです。その頃に、一人のヒッピーが船に乗ってやってくるのですが、その船の中で島の老人が「島には若者がいない」と愚痴ったのです。するとその若者が「それなら若者を連れてきましょうか」と言い、しばらくして東京のカフェ「風月堂」にたむろしていたヒッピー10人余りの若者の集団を引き連れ、諏訪之瀬島に再びやってきたのです。

島の老人たちは当初その長い髪の毛に驚き、遠目に見ていたそうですが、若者たちは自分たちの集落を作り漁師をしたり自給自足して、その後数十年住み続けるのです。今でも存在するらしいです。そこからさらに長野県大鹿村にやってきたヒッピーもいるのです。諏訪之瀬島で、目的は違えど同じ島で過ごした青木さんから、これらの話を聞いて初めてその存在や地名を知ったのです。そのヒッピーグループの一人である山尾三省の詩が、青木さんのスモーク小屋の壁にかかっていました。この経過やこの詩に共鳴した私はいつか諏訪之瀬島か大鹿村に行ってみたいと思っていました。
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そのグループがどういう時代背景の中で生まれてきたのか、以下のサイトよりの情報。
http://konohoshi.jp/special/nanao/nanao_commune.htmlより

体制に背を向けた若者の一群

1960年代後半、日本は高度経済成長の真っ只中にあった。人々は、モノの所有や便利さの追求に魅せられ、物質的に恵まれることが人のいちばんの幸福であるという価値観に支配されていた。豊かな暮らしを保証する最善のコースは、一流大学を卒業して大企業に就職することだった。それは遡行して予備校や高校受験、塾など、少年、児童にまで波及していく。このプログラムは、50年以上経った今でも変わらないようだが、大企業の安全神話も一流大学の幻想も、グローバリズムや少子超高齢化などの社会構造の変化により、崩れつつあるようだ。

日本の敗戦は、それまで国民に行き渡っていた皇国思想をチャラにした。代わりに民主主義と自由主義が、カラッポになった日本人の精神のなかに一気に流入した。戦後、焼け野原となった空虚と渇望のなかで積み上げられてきた価値観、それは豊かになるということだった。アメリカ型民主主義と大量生産・大量消費を礼賛する20世紀的資本主義が、日本復興の基本フレームとなった。モノを産めよ、殖(ふ)やせよ、そして、消費せよ。それが理想的な社会主義国家と見紛うほどに均質で従順な社会を出現させた。「一億総中流」という流行語まで生まれた。さらに朝鮮戦争という不幸な事態をも外需という恵みに変えて、復興どころか驚異的な経済成長をこの国にもたらした。所得倍増計画が達成された60年代後半、人々がクルマやクーラー、カラーテレビに目を輝かしている時、経済の発展と成長にバラ色の未来を見ている時、それらの価値観と社会に異を唱え、体制に背を向けた若者の一群がいた。それが、ななおさかき、ナーガ、山尾三省などが中心となって生まれた「部族」というグループだった。ななお、ナーガは、すでに何年も前からドロップアウトし、新宿を拠点とする筋金入りの放浪者でもあった。(転載終わり)

彼らの作ったコミュニティはほとんど廃れてしまったものの、まだ60代70代で自給自足生活をしている方もおられます。しかし、彼らの存在を知るにつけ、今あちこちで生まれている若い世代の自給自足家族と彼らはダブります。ただ、彼らを刺激したのは部族ではなく、多分東南アジアからインド・ネパール・ブータン等を始めとする原初的な生活をしている人々との出会い故だっただろうと思います。

部族から刺激を受けるには、あまりに部族は少数派であり、その存在すらなかなか認知されず、マスコミで騒がれることはほとんどなかったでしょうし、彼らはマスコミを拒否もしていたでしょう。

しかし、何はともあれ、違う道筋であれ、たどり着いたのは同じ地点だったようです。ただ、生活形態が違う点もあります。現代の彼らは集団にはならず、それぞれが別個に家庭を持ち、繋がってはいても時に遠く離れていたりします。集団生活は当初から無理だと思ったのか、最初から発想としてなかったのか。しかし、集団生活はなかなか難しいところがあり、部族が崩壊して行くのも、結局はそれぞれが家族を持ったが故であると記されている文章もあります。無理のない、それほど大きな哲学があるのでもなく、巨大な何かに抵抗しているわけでもなく、単にそれが一番幸せじゃないのかなあと思っている気安さが彼らの特徴であり、現代的な若者の無理のない姿勢ではないかと思います。

双方に接点がなかったとしても、自給自足している若い彼らが部族を知ることは、参考にもなり、刺激にもなると思います。
たとえば、以下の詩。

ななおさかきの詩

「これで十分」

足 に 土
手 に 斧
目 に 花
耳 に 鳥
鼻 に 茸
口にほほえみ
胸 に 歌
肌 に 汗
心 に 風
これで十分

存在感があったと異口同音に言われる ななおさかき 若かりし頃と晩年
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ななおさかきに関する文章を転載します。以下より。
http://konohoshi.jp/special/nanao/nanao_01.html

針の穴を通った象

だれも真似できない生き方を貫いたひとりの人間がいた。かれの名は、ななお さかき。すでにこの世にはいない。ななおがこの世に置いていったのは、数十編の詩とかれを愛してやまない仲間たち、そして仲間たちをつなぐ目に見えない強いネットワーク。

家を持たず、カネを稼がず、家庭も築かず、帰るふるさともなく、生涯のほとんどを旅して過ごした。悲壮感などひとかけらもなく、凛々として森を歩き、山脈を越え、砂漠を踏みしめ、河と海を渡りながら、大地と天を畏友とした。大雪山系から南西諸島まで日本列島はその高低を問わず、くまなく歩き尽くされ、その行路は、北アメリカ大陸、ヨーロッパ、中国大陸、オセアニアに広がり、気に入った土地があれば何ヶ月も滞在した。無一文だが、頑健な身体とよく響きわたる声、博物学的な好奇心と何にも束縛されない自由な時間、人々との交流を最大の財産として、十全の生命を謳歌した。労働と稼ぎ、文明社会の最大の呪縛から解放されて、どうやって85歳の天寿をまっとうできたのか、不思議といえば、じつに不思議なことだ。みるからに仙人、隠遁者の風貌だが、神秘的ともいえるその実存性によって、「生計を立てる」という市民の義務から免除されたのか。ポップスターが使う比喩でもなんでもなく、ななおは生きた吟遊詩人でもあった。皆に愛される詩を吟唱し、旅の話を併せ聞かせながら、饗宴のもてなしを受け、夜のねぐらも確保した。ななおは、古代でしかあり得なかった生き方を現代のなかに通したかにみえる。針の穴のなかに象を通すように。

珊瑚礁は僕の鏡

ななおは、詩人と呼ばれるのを避け、自らフーテンと称するのを好んだ。しかし、かれは生涯を通じて学び、そして行動した人でもある。学ぶ領域は、東西を問わず、また英語圏の書物も渉猟し、文学・哲学はもとより、歴史、民俗学、天文、動植物・地理など、人文学から自然科学まで及んだ。

ななおは、企業が右へならえの「地球環境を守ろう」の大合唱を繰り広げるはるか前から、自然破壊に血道を上げる企業や国・自治体と戦ってきた。屋久島の樹齢千年を超える屋久杉の伐採に抗議行動を起こしたのは1955年のことだ。1974年には、トカラ列島・諏訪之瀬島のヤマハ・レジャーランド開発ボイコット運動を、当時滞在していたアメリカからアレン・ギンズバーグ、ゲーリー・スナイダーを巻き込んで支援した。そのほかにも、カリフォルニアのレッドウッドの保護運動、北海道の知床の原生林を守るキャンプへの参加、石垣島・白保の珊瑚礁(さんごしょう)を守るための活動、河口堰に反対する長良川行進など、さまざまな人たちと連帯しながら、多岐にわたる行動をつづけてきた。

「ぼくらの惑星の中で最も素晴らしい所は、氷河と砂漠と、草原と原生林と、そして珊瑚礁だ。そこには、たくさんのエネルギーがある。・・・(中略)だから僕にとって珊瑚礁というのは、別の世界ではない。ほとんど僕自身、僕にとっては鏡のようなものなんだ」(インタビュー:「森と水の詩人」−『ココペリ』より)

ななおにとって、自然とは自分自身でもあった。それが破壊されていくのは悲しいというよりも、痛みをともなうものだったろう。発展と繁栄の名のもと、あるいは平和という大儀により、現代社会と現代人が行ってきた地球と生命と自然に対する暴挙の数々、絶望的ともいえる所業とその影響の深刻さ。ときに、ななおの詩のなかに込められたアイロニーは強烈だ。しかし、絶望はしない。この戦いは、生きているあいだ、人の一生程度の時間のなかで決着のつくものではない、と仲間たちにハッパをかける。

世紀を越えるレボリューション

あの強靱さとしなやかさ、大らかさと充溢した存在を知れば知るほど、ななおという生き方にあこがれを抱く。そして、もちろん畏(おそ)れも抱かざるを得ない。一生に亘って、家もなく、家族も持たず、一切の生計を放棄して生きていく・・・そんな人生を想像するだけでも身がすくむ。仲間たちが主催するイベントや祭りへの参加、詩の朗読会で、陽気に、そしてくつろいだ表情のななおの映像を見ることができる。しかし、かれが黙々と夜の国道を歩いたり、海辺の洞窟に眠ったり、空腹に襲われながら一人、旅をつづけている場面を、われわれが知ることはない。

ななおのように生きることはできない。不可能である。しかし、ななおが踏破した世界、かれの目に飛び込んできた光景、銀河宇宙とつながったかれの脳神経のきらめき、巨視的なものから微小なものまで、森羅万象さまざまな出会いを、われわれは少し知ることができる。詩という作品から、あるいはだれかの思い出話から、触れ、感じ、学ぶことができる。それだけでも、われわれは、現代という最たる病から解かれるだろう。閉じられていたもの、閉じていたものが同時にひらかれ、遊星が横切るようにわれわれのなかで何かが起こり、何かが生まれる。それがどの程度作用するかは、人それぞれの資質にもよるだろう。それがたとえちいさな変化であろうとも、もし、自我という固形物からわずかでも真理が溶け出すことができたなら、そのエッセンスは宇宙にひろがっていくのではないだろうか。それは、その人間に起こったレボリューションであると同時に宇宙で起こった進化だと思う。この革命は、世紀を越えていかねばならない。ななお さかきは、変わるべき人類の一歩先をいまも歩いているはずだ。

興味のある方は、ブログ「この惑星」の中の「世紀を超える旅人 ななおさかき」のVol1からVol5までお読みください。以下。
http://konohoshi.jp/special/nanao/nanao_01.html

さらに「ナナオサカキのホームページ」は以下。本人自身の詩の朗読も聞けます。
http://amanakuni.net/nanao/

posted by 種蒔夫 at 17:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月27日

再々度、やばい日本

先日参加した「福岡正信さんと自然農法を愛する会」で同席した新井さんから、以下のビデオの紹介がありました。アメノウズメ塾の杉田氏の講演会の様子です。アメノウズメ塾は既知の方もおられると思いますが、私も9年くらい前から読んでいたサイトで、911同時多発テロを始めとしてかなり刺激を受けました。

その杉田氏の今回のこの講演会の内容はさらに衝撃でした。ただ、ほとんどの資料に出典がないので、疑問点もありました。それで私なりに調べつつ、寄り道もしながら、このビデオを見て考え、感じたことを書いてみます。

この中で、日本に原爆を落としたトルーマン大統領は以下のような言葉を残していると言われます。

「猿(日本人)を虚実の自由という檻で、我々が飼うのだ。方法は、彼らに多少の贅沢さと便利さを与えるだけで良い。そして、3S(スポーツ、スクリーン、セックス)を解放させる。これで真実から目を背けさせることができる。猿は我々の家畜だからだ。家畜が主人である我々のために貢献するのは当然のことである。その為には、我々の財産でもある家畜の肉体は長寿にさせなければならない。病気にさせて、しかも生かし続けるのだ。これによって、我々は収穫を得続けるだろう。これは戦勝国の権限でもある。」

3Sについては、よく聞く話です。しかし、これは日本人に限った話ではなく、全世界的にそういう傾向があります。ヨーロッパや南米のサッカーの試合では、結果によっては殺人にまで発展するほど加熱しており、アメリカ人自身がベースボール、バスケット、アメリカンフットボールに興じ、アカデミー賞に一喜一憂してます。「猿じゃないんだから、そんなに興奮しなくても!」と日本人が忠告したくなるほどです。

その日本でもテレビニュースでは、政治社会のニュースの後には必ずと言っていいほど、スポーツの話題です。スポーツは我々にとって一大事のようです。勝負事にこだわるのは、元々の人類の性格なのか、そうさせられたのか、よくわかりませんが、煽られているのは確かです。種子法廃止とか、本来なら生きることに直結している情報こそ流すべきなのに、ほったらかしでスポーツですから。

しかし、このトルーマンの言葉ですが、ヤフーの知恵袋には「トルーマンのこの言葉の明確なソースは?」と問いかけていますが、誰も答えていません。事実かどうか、判然としません。大統領になるような人間が心では思っていても、わざわざこんなことを発言、あるいは記述するかなあ?という疑問がありますが、トランプの例もあるし、あり得ないことでもないですが、、、。

それで、いろいろ調べるうちにガブリエル・コルコ 「第三世界との対決」(筑摩書房)について知りました。その内容は、戦後の日本の姿に合致するのです。以下のサイトより
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=230912

米国国防総省・ペンタゴンの「お墨付き」戦略家=ガブリエル・コルコは、世界中で展開された、米軍の「低強度戦争」の成功例を本書の中で展開している。

「低強度戦争」は、21世紀現在、アメリカが世界中で展開し、今後も、米軍の軍事戦略の中枢をなす「戦争の方法」となっている。

ベトナム戦争以後、アメリカは「どうしたらアメリカに逆らう国が無くなり、大規模な戦争を避けられるか」という戦略を練り上げた。モデルになったのは日本であった。

その戦略は、

1、アメリカを絶対に支持し、アメリカに服従する政党と政権を他国に成立させ、そのための資金をアメリカが提供する。

2、この買収資金は、アメリカの税金ではなく、他国でアメリカが麻薬を密売した利益を提供し、アメリカが経済的負担を負わない方策を取る。

3、マスコミ操作を通じアメリカが常に「善」であると他国の市民を洗脳し、アメリカを批判する言論をマスコミに「登場」させない。アメリカ映画、音楽を大量に流し、アメリカが「すばらしい」国だと連日宣伝する。

4、学校教育においては、丸暗記中心の学校教育で思考能力を奪い、アメリカへの批判能力を奪う。

5、教師への絶対服従を学校教育で叩き込み、「強い者=アメリカへの絶対服従」を「子供の頃から身に付けさせる」。

6、逆らう言論人、ジャーナリストは、そのジャーナリストのセックス・スキャンダル等をマスコミに流し失脚させ、必要であれば軍の諜報組織を用い、事故に見せかけ殺害する。

7、他国の食料、エネルギー自給を破壊し、米国に依存しなければ食料、エネルギーが入手出来ないようにシステム化し「米国に逆らえないシステム」を作る。

こうした支配戦略をアメリカは「低強度戦争」と名付け、出来るだけ軍事力を使わない「ソフト・パワー」で支配する「戦争」と位置付けた。

この「低強度戦争」の最も成功した例が日本である。これは、日本支配のための「軍事戦略であり戦争であった」。

この戦略に沿って、行われた日本の食料自給率の低下は、明らかに、アメリカからの食料輸入の圧力が原因であった。(転載終わり)

戦略通りに事は進んでいます。「4、学校教育においては、丸暗記中心の学校教育で思考能力を奪い、アメリカへの批判能力を奪う。」とあります。我々は丸暗記が勉強だと思っていました。しかし、本当の勉強は違うのです。戦前戦中に旧制中学という5年生の中学校がありました。今の中学校と高校を合わせたものです。叔父たちは旧制中学に行ってましたが、話していても「知性が違う」と感じることが度々でした。「生き方」「責任感」もちがうし、「大人だった」とも感じました。戦後の記憶の勉強と、戦前戦中の思考し、感じ、自ら学ぶ姿勢の違いではないかと思います。

私が毎度言うことですが、教師を養成する教育実習がたったの1ヶ月という先進国では多分最短の時間での教師促成栽培もアメリカの策略ではないかと思います。

また、明らかに我々は政治社会に無関心になってしまいました。日本人は「これが人間社会で、普通のこと」と思っているかもしれませんが、「日本って、違う」と思わされたのが、やっぱりフランスでした。田舎のばあさんだって、政治がどうのこうのと言いますし、フランス人でアメリカやアメリカ人を好きな人に出会ったことがありません。アメリカの姿勢をちゃんと見てるのです。パリのマクドナルドは東京ほど多くありません。それどころか、赤色でなく緑色のマクドナルドがありますが、アメリカナイズを嫌っている象徴に見えます。フランスでは遺伝子組換えを阻止し、ネオニコチノイドは全面禁止です。ちなみにスローフードを言い出したのはイタリア人です。

何故か?やっぱり教育が違うのだと思います。○✖️&暗記じゃなくて、思考する教育だからでしょう。フランスでは論理性が無い人、意見のない人は無視されて、相手にされません。日本と同様に敗戦国であるドイツやイタリアでもアメリカの言いなりではないでしょう。独伊が戦後アメリカに対して、どういう風に対応したのか、あるいはアメリカの姿勢がどういう風に異なったのか、非常に興味深いです。そこにやはり白色人種と黄色人種への対応の違いがあったのか。

また、このビデオの中でのルーズベルトの言葉

「我々ヨーロッパ人種とインド系やアジア系との混合も進むだろうが日本人種だけは取り除く必要がある」

「日本人種は南方アジア人種と盛んに混合させて、いずれはその種そのものを失くしてしまえば良い」

この言葉が事実かどうかは知りませんが、最近は労働者不足で日本にも海外の人が移住するようになり、今度さらに増えそうです。この政策はこの言葉と合致します。そう思うと、移民もどうかなと思います。さらに、ビデオの中のこの表です。
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どこからの資料がわからないので、自分で以下の日本国政府の資料(も、最近の偽造統計問題を考えると、本当かどうか怪しいのですが、、、)
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00250005&tstat=000001012930&cycle=7&year=20060&month=0
の「新受刑者中、外国人受刑者の罪名別 年齢(総数)」から調べてみました。日本人は22万人に一人の割合で殺人事件を起こしますが、国内韓国・朝鮮系では6万人に一人、国内中国人で3万人に一人。それぞれ日本人の3.7倍、7.3倍の多さです。犯罪総数から見ても、日本人は4000人に一人ですが、韓国・朝鮮・中国人は800〜900人に一人で、4〜5倍の多さです。

彼らが日本に入れば入るほど危険なのです。無論、全員が危ない人ではありません。しかし、確率からすれば、危険度が増すのは目に見えています。

私事ですが、向こうから近づいて来て、友達になり、金銭を貸すことになり、損失を被る、あるいは脅し取られることが、過去に四回くらいありましたが、気がつくとそれは全部同じ某国の人でした。対日本人の友人では全く起こらなかったことが、彼らとの間では起こるのです。今、改めて考えると、人間関係の感覚が全く異なります。「人に迷惑をかけてはいけない」という日本人なら普通にある感覚が欠如しています。

フランスでは多分1960年代くらいから労働力を補うために、北アフリカの移民を受け入れ、フランスでは賃金が安い清掃等の仕事はほとんどが移民の人たちがしています。それはそれでありがたいことですが、移民の結果はテロという形で今に繋がっています。移民の審査は時間と金をかけて慎重にしない限り、日本は安全な国ではなくなるでしょう。移民を大量に受け入れて、何とか安定した時期になるには、100年とか相当に長い年月を要するでしょうし、それこそ、ルーズベルトが願ったように日本種は混ざり合い消滅してしまうのは覚悟の上でしなければならないかもしれません。

しかし、長期的に考えれば、混血こそが世界平和の一つの道のようにも思います。そう思うのは、以下のような興味深い歴史があるからです。

ルーズベルトは日本人を地球上から根絶したがっていたように見えます。しかし、同じアジア人でも中国人に対しては異なります。ウイキペディアによれば「アヘン戦争の頃から中国とアヘンを含む貿易を手広く行って財を為した母方の祖父の影響で、ルーズベルト本人が幼い頃から中国文化に深い愛着を持ち、中国人に対して同情的かつ友好的な考えを持つ親華派であることを明言していた」(転載終わり)

日本人が嫌いと言っても、アジア人蔑視でもないのです。母方の祖父の影響で中国贔屓。もし、この祖父が日本と関わっていたら、日本贔屓(びいき)になっていたでしょう。

似たような話がもう一つあります。京都は原爆投下リストに上がっていましたが、後に外されたのは「古都だったから、大事にされた」みたいな話を聞いたことがありますが、事実は異なります。もっとロマンチックです。

原爆投下に関わったアメリカの陸軍長官ヘンリー・ルイス・スティムソンが京都をリストから外させた張本人です。その経過は以下です。

「標的委員会は5月28日の第三会合で三標的をあげた。京都、長崎、新潟の順であり、照準点は市街地の中心地となった。しかしこのリストを見たスティムソンは、京都は歴史的な都市であり、日本人の宗教の中心地であると強く反対した。

彼が三日後の臨時委員会でも、グローブスはなお強く京都を主張、アーノルドも支持したので、スティムソンは新旧の首都を標的リストから外すようトルーマンに要請し了解を得た。それでもアーノルドとグローブスはまだ京都を断念しなかったのである。

アーノルドはさらに京都を押し、どうしてもだめなら長崎をと言った。スティムソンはもう一度トルーマンと会い、ようやく京都を外すことが最終的に決まって、広島、小倉、新潟、長崎となった。」(転載終わり)

このように、リストから外すのは簡単なことではなかったのです。何故、ステイムソンは執拗に京都にこだわったのか?実はステイムソンは昭和6年、新婚旅行で京都を訪れていました。その文化財の奥ゆかしさに心を奪われたそうです。それで気に入ったのか、京都には二度訪れています。文化財の奥ゆかしさもあったでしょうが、奥さんが「ああ、あの麗しの京都。ハネムーンの地に原爆を落とすなんて、私たちの結婚を破壊するようなものだわ。あなた絶対に反対してね。でないと、離婚だわ」と言ったかもしれません。(笑)

ルーズベルトの中国、ステイムソンの京都、双方ともとても個人的体験が左右しているのです。そんなことが、敵視になるか、愛になるかを分けるのです。戦略、政策、そんな難しいことが決めているわけじゃないのです。いかに体験が大事か、を物語っています。世界が一向に平和にはならないのは、国家の重鎮が地元のことだけしか知らないからという体験不足のせいかもしれません。世界を旅する、人との交流を頻繁にすることが誰よりも必要としている人たちではないでしょうか。

このような事例を見ると、一時的に苦しみが伴っても、人種が混ざり合うことこそが、もしかして世界平和への道かもしれません。現在のように、移民、移住が取りざたされ、その数が増えていくにつれて、混血は増えていくでしょう。しかし、仮にそういう状況になっても、最後まで抵抗する勢力がいます。支配層、超金持ち層です。彼らは自分たちの立場を守るために、血を守り続けようとするでしょう。混血は彼らの意図だとして、図らずも結果的に平和が来たとき、支配層はどうするのでしょうか。

話をビデオに戻りましょう。TPPに関して、デメリットはどういうところにあるのか、明確に知っている人は少ないと思いますが、このビデオを見るとよくわかります。アメリカにとってカナダは隣国で同じ白人であるし、仲良しこよしの国かと思ったら、大間違い。カナダにもガンガン経済的被害を与えています。TPPのような国際的契約事をしてしまうと、とんでもない被害に見舞われるのです。自国(アメリカ)に有利なようにしか作られていないのです。傲慢アメリカンの恐ろしい戦略。しかし、そのアメリカがどうしてTPPを抜けたのか、理解できませんが、、。

その他水問題とか、様々な問題山積。とにかく、このビデオ見てください。


追加:ウイキペディアによれば「この時代の富豪の子弟の例に漏れず、フランクリン ルーズベルトは家庭教師の手によって教育を施された。同世代の子供と交わる機会はほとんどなかった。14歳の時、名門グロトン校に入学を果たしたものの、寄宿舎生活にはなじめなかった。 1904年にハーバード大学、1908年にはコロンビア大学ロースクールを卒業。」

ルーズベルトも言ってみれば不登校児です。今で言う、ホームスクールだったわけです。「同世代の子供と交わることがなかった」それでも、大統領です。ルーズベルトの唯一の貢献「学校教育なんか受けなくても、大統領くらいならなれる!」でした。



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2019年02月23日

10月9−19日 勝山市(福井)中新川郡・八尾町(富山)戸隠・伊那市(長野)10481ー10503

9日、渋谷さんからの情報で同じ勝山市内のフリースクール「かつやま子どもの村小学校・中学校」を訪ねました。校内で渋谷さんの知人の久保瀬さんに10481番。
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栽培の担当の徳岡先生と次々に集まってきた子供たちに10482番〜487番
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短時間だったので、学校の様子はわかりませんでした。ただ、子供達は生き生きしていて楽しそうでした。以下、学校のサイト
http://www.kinokuni.ac.jp/katsuyama/school.html

ウイキペディアによれば

きのくに子どもの村学園(きのくにこどものむらがくえん)は、京都大学教育学部出身、元大阪市立大学教授の堀真一郎が、イギリスのサマーヒルスクールなどを範として創立した学校法人。

サマーヒルスクールを調べると

サマーヒル・スクールは、「子どもたちは強制よりも自由を与えることで最もよく学ぶ」という哲学により、大きな影響を世界の進歩主義の教育に影響を与えた学校として知られている。すべての授業が選択で、生徒たちは自分たちの時間で何をするのも本人の自由に任されている。ニールは、「子どもの役目は彼自身の人生を生きることであり、心配性な親が、彼はこんなふうに生きるべきと考えた人生を生きることでもなければ、自分が一番よくものを知っていると思い込んでいる教育者の目的にかなった人生を生きることでもない」という信念のもとにこの学校を創設した。(転載終わり)

全くその通り。ハルヤのお母さん(子供が不登校だった)も「子供は自分で学ぶ力を持っている」と言われます。通常の学校(公立校)の先生や彼らを教えた教育学部の教授たちは、この事実を知りません。頭コチコチで常識的。

きのくに子どもの村学園の先生からの情報で、近くで農業をしている竹田さんに10488番。
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竹田さんの借家。屋内もいい味出てました。
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9日、ヤギ農場にて10489番

10490番、高野さんの息子さんへ

10491番、廣和仁さんへ

11日、中新川郡の酒井さんに再会。朝早くから農作業。御苦労さん。
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12日、石黒木太郎さんに10492番。留守で会えず、残念!
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13日、ガソリンスタンドにて、10493番
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松永さんに10494番。

五朗八と川遊び
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同日、戸隠の諏訪さん宅に再訪。鈴木美幸さんに10495番。
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諏訪さん宅に宿泊にくるという高校生に10496番〜499番。

18日
唐木さんに10500番。留守でした。
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南アルプスの道の駅でタネの整理をしていたら、興味深げに近づいたおばさんに10501番
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五朗八と散歩中に人骨のようなキノコがありました。
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19日、伊那市のさくらの湯にて、食堂のおばさんに10502番。
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休憩室でタネ整理していたら、
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おばあさんが「何してるの?」10503番
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2019年02月22日

10月2日−8日 舞鶴(京都)若狭町・福井市・勝山市(福井)10470ー10480

2日、町不明。midori-yaのノドカさんに10470番。

3日、琵琶湖にて、五朗八の犬かきというよりバタフライ。


「犬かきができなくて悪いか!俺は世界初のバタフライ犬だ」
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鳥の髑髏(されこうべ)を見つけました。
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流線型が美しい。高速車のようです。
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同日、京都府の舞鶴市の村本さん宅へ。ここは過去の旅の中でも、最も衝撃の大きい訪問先でした。一番最初に学校へ行かない子供(すでに成人でしたが)に会った家庭でした。その後、あちこちでそういう人たちに出会い、それが二周目の旅に繋がっています。それと、この家で糞便をガスに変えて煮炊きに使っていました。無駄のない生き方に感心しました。
詳しくは以下へ。
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/423857920.html

この日は糞便ガスについての情報を得ました。英語ではバイオガスというそうです。
Biogasとは bio=生物 gas=ガス
ちなみに、bio terror は 生物(兵器)テロ。日本では日常的にお父さんがバイオテロ(ガス屁器)リストです。死ぬことはありませんが、1分間は苦しみで何もできなくなります。突然なので気をつけよう!たまにお母さんからも発射されます。無音の場合が多いので、呼吸した時にはすでに吸っており、逃げようもなく、被害多数。

資料を見せて頂きました。
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4日、町不明、溝にはまり込んでレッカー車救援。運転手に10471番。
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5日、福井県若狭町へ。市川さんと再会。
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国道を走行中に猿の集団に合いました。昼間から堂々としてます。
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6日、福井県福井市の萌叡塾(ほうえうじゅく)へ再訪。10472番〜479番。
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この日の日記は以下
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/462052372.html

7日、福井県勝山市の渋谷さん宅へ再訪。10480番。
その日の日記は以下
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/462122438.html
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ホームセンターに行ったら、子供用粘土団子を売ってました。         
あの世で、福岡正信さんもさぞお喜びでしょう。
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posted by 種蒔夫 at 15:44| Comment(0) | 種受取人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月21日

10月1日 大津市・高島市(滋賀) 10364ー10468

1日、大津市のカフェにて 10364番

10365番〜10464番は寝屋川市の富田さん主催のイベント「くらわんかマルシェ」のために郵送
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同日、高島市のゲストハウス「ハルヤ」へ再訪。
遊びに来ていたアイ君に10465番。
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噂を聞いて駆けつけた廣清さん一家に 10466番〜468番
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お嬢ちゃんと五朗八の散歩に出ました。庭では自然物と人工物の美の競演!
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さすが自然児!イモリを手づかみ
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冬の備え
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種類豊富な畑
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何故か、この辺は絵画のような綺麗な石が多い。
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家の中は家族の創作物があちこちに
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奥さんの絵画。くろうとはだし、いやプロですか?もしかして、、  
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行くたびに、心地良い演奏を聴かせてくれるピアノを独学した次男さん。何でもかんでも習いに行く日本の子供教育ですが、興味さえ持てば子供は自発的になり、かなりのレベルまで行くことを証明してくれています。

以前にも紹介しましたが、長男は小学生時代に不登校。でも、いまは高校で学年1番の成績だそうです。両親は学校は行っても行かなくてもいいという考えで、子供の自由意志。

以前のハルヤ関連は以下。
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/458141826.html
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/455711134.html


posted by 種蒔夫 at 10:09| Comment(0) | 種受取人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする