2017年12月13日

10月3日 糸魚川市(新潟) 8727ー8739

糸魚川のコンビニに駐車していると「日本一周しているの?」と声をかけた方に8731番。若い時にバイクで旅をしていたと懐かしそうに話すこの方はカニの運搬をする仕事。「ああ、ここはカニの産地だった」と思い出しましたが、「高価なカニには、とても手が出ないなあ、、、」
1.JPG

この方もカニの運送業。8732番。
2.JPG

佐藤さんからの紹介で目的地の「ゲストハウス山楽」へ行きました。そこで宿泊していた小久保一家に8727番〜8729番。
3.JPG

ミュージシャンの小久保さんから音楽CDを頂きました。聞いているうちに、段々と気持ちが落ち着いてくるような音楽でした。ありがとうございました。
10.JPG

中身もさることながら、この写真がいいです。
9.JPG

「山楽」の榮さんに8730番。
4.JPG

榮さんの奥さんに8733番。
5.JPG

榮さんが、昨晩の宴会のカニがいっぱい残っていると食べきれないほど頂きました。朝の儚(はかな)い夢が叶ってしまいました!感謝感激カニあられ!
7.JPG

昨年12月22日糸魚川で大火災がありました。
2-19.jpg

10月4日、糸魚川市の火災があった地区へ行きました。復興食堂へ。
1.JPG

復興力が足らない復興ラーメン!(笑)
2.JPG

レジのおばちゃんたちに8734番と8735番。
3.JPG

近くのパン屋さんに8736番。
4.JPG

火災現場。復興未だならず、、、何もありません。
5.JPG

佐藤さん紹介の山田さん宅へ。お母さんに8737番。畑でヒスイの勾玉を見つけた丁度1年後の同じ日に勾玉のような子が生まれました。
6.JPG

それが息子の修さん。ヒスイとの縁は生まれる前からあったのか!現在、修さんはヒスイ加工販売・縄文文化研究. 日本海縄文カヌープロジェクト. 糸魚川ヒスイが五千年前に青森まで丸木舟で運ばれたとされる学説の検証をする市民団体所属であります。8738番。
18.JPG

修さんと縄文時代の博物館に行きました。憧れの縄文時代。
9.JPG

10.JPG

19.JPG

この夜はお母さんの家庭料理を頂き「ツタンカーメンのタネ」を頂きました。ありがとうございました。珍しがられて、もう数粒しかありません。
7.JPG

お父さんに8739番。優しそうなお父さん!と思ったら大間違い!
11.JPG

これは辛子明太子ではありません。ボクシングのグローブです。
12.JPG

なんと!お父さんは昭和32年度ライト級の日本チャンピオンでした。指導者もいない中で15歳から見よう見まねで始めたとか。現役引退後はボクシングジム経営。修さんもカヌーの名手ですが、兄弟も全日本級の武道者揃いのスポーツ一家でした。
15.JPG

サインをして頂きました。紆余曲折の人生を感じます。
17.JPG




【関連する記事】
posted by 種まく旅人 at 08:49| Comment(0) | 種受取人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月12日

10月2日 上越市・妙高市・糸魚川市(新潟) 8722ー8725

上越市の「八百屋の土田」に行きました。八百屋なんて絶滅危惧店かと思っていましたが、なんのなんの、立派に存在していました。
2.JPG

土田さんに8722番。
3−8722ー土田.JPG

店の中を覗くと、見たような人が写真の中に、、、
「あ、中川さんじゃないの?!」山形県高畠町で種蒔きした第14代中川吉右衛門さんでした。この店でお米が販売されてました。
4.JPG

さらに、上越市の自然食品の店「カラコロ堂」へ。8723番と8724番。
5ー8723−4ーカラコロ堂.JPG

妙高市の関原さんの自宅を訪ね8725番。
7−8725ー関原.JPG

修理に出していたセレナを引き取りに上越市の日産に行きました。日産の佐藤さんに8725番。修理に関して激しいやりとりをしたのに、とてもいい笑顔で種を受け取って頂けました。ありがとう。
8ー8726ー佐藤.JPG

しかし、車の方はレッカー車移動の際は動かなかったのに、日産に持って行ってからは全く正常な状態だったので、故障箇所を特定できず、これ以上故障するまで待っていても時間ばかりが経つので、引き取ることにしたのです。再び、根本的原因がわからずに、旅を続けることになりました。いつ、また故障するやら、、、、

と思っていたら、一昨日12月10日五郎八の散歩に途中下車したところで、エンジンがかからなくなりました。福井県若狭町から303号線を10キロほど行った地点。川が流れていていい場所なんですが、
1.JPG

待てばエンジンがかかる傾向があったので、ここで丸一日時々エンジンをかけながら待っていましたが、願い叶わず、翌日とうとうレッカー車で運ばれる羽目に、、、。
2.JPG

ところで、この場所で五郎八と散歩に出たら、すぐ近くに神社を見つけました。杉の大木からして、数百年か千年くらいは経っている古さ。こんなに寂れさせていいのかなあと思いました。参拝したお陰か、翌日車の故障箇所が特定でき、しかもサービスキャンペーン(ほぼリコール部分)だったので、無料でした。6月以降、7〜8回はレッカー車で日産に運ばれ、結局治らずじまいだったセレナがここに来てやっと修理完了!神様のお陰です。津野神社の神様、ありがとうございました。近場の皆さんもぜひ参拝してあげてください。神様、喜ばれます。
3.JPG

若狭町で農業研修をしている石川さんに種蒔きをするために来たのですが、石川さんが夜に水やタバコの補給に来てくれて、助かりました。石川さんにも感謝です!

今日は、滋賀県東近江市にいます。井ノ口さんという方のお陰で、情報が少なかった滋賀県で意外な広がり方を見せています。今日も二、三箇所訪問先があります。ありがとうございます。昨日までで9141番。



posted by 種まく旅人 at 08:55| Comment(0) | 種受取人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月10日

10月1日 高崎(群馬)湯沢町(新潟) 8713−8720

群馬で種蒔きした秋山さんが入院したと聞き、この日お見舞いに行きました。秋山さんと看護士さんに8713番と8721番。
1.JPG

全部の種箱の蓋を開けてお見せしました。お元気になられますように、祈っています。
2.JPG

群馬から新潟に向けてさらに車を走らせて、南魚沼郡の湯沢町に行きました。色々なところから情報があった「gaiA」というカフェに行くためでした。
キャンプができる屋外
12.JPG

13.JPG

秋田県がいました。闘争心があると聞いて、五郎八との対面叶わず。
14.JPG

入り口に注意書きがありました。納得です!
11−2.JPG

中に入ると、、、これ床じゃなくて、天井です。
1.JPG

いかにも山小屋に来た感じ。
2.JPG

ここに来るお客さん分も含めてgaiAさんに8714番〜8720番
5.JPG

壁に「野糞の心得」が貼ってありました。

「場所を選び、穴掘り葉で拭き、水仕上げ、埋めて目印、年に一回 
                    糞土師 伊沢正名」

注:「年に一回」とは同じ場所に年に一回しかしてはならない!ということです。富栄養化を防ぐためです。土には土の事情があります。そのための目印をしておかねばならないのです。何と自然に優しい心持ち。
4.JPG

種蒔きの旅も野糞を避けては通れません。棚を見ると、この書を書いた伊沢氏の名著が!迷わずこの指南書を購入しました。
「葉っぱのぐそをはじめよう」
51WALTmHYJL._SX350_BO1,204,203,200_.jpg

野糞の重要性やら葉の種類によってお尻の皮膚の感触が違うことなど、野糞の達人ならではの細かい「野糞道」が著されています。大変貴重な本です。野糞をする人も、しない人も、したい人も、絶対したくない人にも、ぜひお薦めです。何故なら、これからの世界どうなるかわかりません。ウオシュレットが使えるなんて、今のうちだけです。一寸先は野糞生活です。便器の代わりに穴を!紙の代わりに葉っぱを!自然に優しい野糞生活。


posted by 種まく旅人 at 10:02| Comment(0) | 種受取人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月07日

学校へ行かない子供たち

今朝のラジオ放送で、不登校児が3%を超えたと話していました。それで調べてみると、文科省の以下のグラフがありました。ちょっと見にくいグラフですが、中学生は2015年が3%弱なので、今年とうとう3%の線を超えたのでしょう。高校生は下がり気味で1.5%ほど。小学生は0.45%に近く急上昇中。中学生が最も不登校になりやすいようです。
graph2015_wari.png

ラジオの中で「学校へ行かないことでの不安」を抱えているという話がありました。それは親の思いかと思ったら、子供本人のことで、多分親や教師や世間の影響を受けて「学校へ行かないと将来がない」とか「学歴がないと、就職できない」とか思って悩んでいるのだろうと思います。ラジオではそういう不安を解消する必要性を説いていました。3%という少数派に属することの不安があり、「みんなと同じじゃない」ことが悪いことであるかのような捉え方をしてはならないと。学校でなくても、フリースクールもあるし、自宅学習もあるし、、。イギリスでは自宅学習をする子供への援助金とか、すでにそういう対応をしているという話でした。

今回の旅に出てから「学校へ行かないとどうなるか?」それは大事な情報ではないかと思い始めました。何故なら、そういう子供達(すでに大人)をあちこちで見かけ、考えること多々だったからです。旅が終わったら、創作活動に戻りたい気持ちもあるのですが、それを取材して歩いてみたいとも思っています。

今日のラジオに出演し、発言していたのは「全国不登校新聞社」の人でした。え、そういう新聞があるのか!と思って検索したら、以下です。
http://www.futoko.org

本題とはやや逸脱しますが、この中に保坂展人氏の大変興味深いインタビュー記事があったので、転載します。

一昨日、千葉の市原市で山川建夫さん(元フジテレビアナウンサーで、30年前にテレビ局と対立して辞職し、現在農業に専念。秋田県のたそがれ農園で種渡しー詳しくはーhttps://ja.wikipedia.org/wiki/山川建夫  種蒔きした日の日記はーhttp://happyhillcontest.seesaa.net/article/454059546.html )と再会して歓談した時に、「内申書問題を告発した人が東京にいて、、、」という話を伺っており、ぜひ会いたいものだと思っていたら、早速ネット上で出会いました。私は教師の立場で内申書操作を内部告発したのですが、この人は中学生の立場で裁判を起こしたのです。すごい人がいるもんだと感心しました。

大人の世界に一歩も二歩も足を踏み入れる頭も良く、根性も座った大人びた中学生は滅多にいるものではありませんが、子供(中学生)といえども、ここまで学校側と対立すると学校はいかなる対応をするのか?それがよく見えて大変興味深いインタビュー記事です。教育問題に関心がある方は、長文ですがぜひ読んでみてください。

保坂展人(ほさか・のぶと)

1955年宮城県仙台市生まれ。高校進学時の内申書をめぐり、16年間の内申書裁判をたたかう。新宿高校定時制中退後、数十種類の仕事を経てジャーナリストになる。1996年から3期11年衆議院議員を務め、「国会の質問王」と呼ばれる。2011年4月、世田谷区長に当選、現在2期目。著書に『いじめの光景』(集英社文庫1994)、『88万人のコミュニティデザイン』(ほんの木2014)、『脱原発区長はなぜ得票率67%で再選されたのか?』(ロッキングオン2016)ほか多数。
hosaka-2fa05-thumbnail2.jpg

インタビュー日時:2017年8月22日
聞き手:奥地圭子、木村砂織
場 所:世田谷区役所(東京都)
写真撮影:木村砂織

奥地 保坂さんには、以前、親の会や子どもたちの集まりでお話しいただいて、こういう生き方もあるんだということに力づけられました。本紙でも2005年に連載していただきましたが、その記事は、現在もホームページで見ることができるようになっています。
 まず、どんな子ども時代だったかということから、うかがいたいと思います。

保坂 生まれたのは仙台市で、幼稚園の途中までは、仙台にいました。そのころは、活発というよりは、どちらかと言えば内気なほうでしたね。

奥地 ちょっと、いまからは想像できないですね(笑)。

保坂 たとえば、昼どきに母に「パンを買ってきて」と言われても、店先に群がるお母さん方に押されて、ついに注文することができない。みんながいなくなってから店の人が気づいて、「僕なんなの?」と言われて、ようやくコッペパンを指さしたという記憶があります。

奥地 かわいい話ですね。

保坂 その後、地元の幼稚園から、くじ引きで当たって東北大学付属の幼稚園に移って、さらに父親が東京に転勤することになって、幼稚園年長の5歳ごろに、東京都世田谷区の幼稚園に移りました。東京に出てきて、母が幼稚園で仲よくなったお母さんから、東大を目指すには日比谷高校があり、日比谷高校に行く学校として麹町中学校があり、麹町中学に入りやすい小学校として3つの小学校があるという情報を仕入れてきて、小学校は越境通学することになったんです。当時、住んでいたのは世田谷区の桜上水だったのですが、そこから都心の麹町小学校まで、小学校1年生からひとりで電車に乗って通うことになったんです。鍵をぶら下げて、「鍵っ子」って言われますけど、そういう状態でした。そのころも、そんなに活発というよりは、ふつうの子でした。
 それが大きく変わるのは、小学校4年生から5年生にかけてでした。父が病気になって、仕事を休んで入院するということがあって、そのときに、なんか心配だけど、半分うれしいみたいな気持ちになったんです。

奥地 お父さんとのふれあいが増えたということですか?

保坂 いいえ、そういうことじゃないです。それまでは父がぜんぶ稼いできて一家の大黒柱だったのが、その父が病気になってしまったことで、なんか自分もしっかりしなければいけない、みたいな意識が生まれたんです。もしかすると越境通学もやめて地元の学校に戻らなければいけないかもしれないし、経済的なことも気になるようになった。この先どうしようとなって、母親の相談相手にもなったことで、すごく読書量も増えましたし、活発になったんです。小学校6年のときの作文には、「内閣総理大臣になって政治の姿を正したい」と書いているんです。小さな大人になったという感じがありました。

奥地 そうですか。なかなか意識が早いですね。

保坂 そうですね。そこで自分が大きく変わりました。通っていた麹町小学校は、わりとゆるやかな感じで、のびのびとすごしていたんです。しかし、麹町中学校に入ると、受験に特化した成績至上主義の学校で、ぎすぎすした感じがありました。たとえば、最初のテストから番付が公表されるんです。「100番以内の子は、いまから名前を呼ぶ」と言ってね。

●受験戦争のなかで

奥地 中学に入られたのは、何年ごろですか。

保坂 1968年(昭和43年)です。大学闘争がだんだん激しさを増していたころでもあり、まさに受験戦争と言われていたころです。「いいか、ふつうじゃ勝てないぞ。朝早くやるか夜に深夜までやるか、人間にはふたつのタイプがあるから選べ」みたいなことを教師が言って、生徒にハッパをかけるんです。自分は朝型だという診断が出て、朝4時から勉強するんですが、睡眠不足で集中力が落ちて、結局は成績が落ちたんです。学年で500人いるうち、46〜47番で、それが非常に屈辱的でした。しかし、そうすると「おまえ、こんな成績で平気でいられるのか」「お前の上に45人いるぞ」と、先生に叱咤激励される。

奥地 じゃあ、ほめられる人はほとんどいないんですね。

保坂 せめて20番以内に入れないと志望校には行けない。でも、1学年で500人いますし、結局、一番成績がよいときでも、20番以内には入れなかったですね。

奥地 その当時、そのような仕組みとか、やり方に批判的な意識は持っていたんですか。

保坂 いや、順応しないといけないと思っていました。学校は徹底していて、まず教科書を使わないんですよ、ぜんぶ手製のプリントでした。中学1年生の最初に元素の周期律表を覚えるところから、理科の授業が始まるんです。「授業を聞かないヤツは、どんどん後ろへ行ってくれ」とはっきり言われて、やる気のあるヤツだけがついていく。その雰囲気にすっかり飲み込まれて、かぶりつきみたいなところで勉強していました。だから、わからない子は、4月の段階で授業がわからなくなる。いま考えてみれば、すごいですよね。

奥地 そうですね。振り落としながらですものね。

保坂 最初に、振り落とすことを宣言して、気持ちの余裕を失わせる。私は振り落とされなかったけれど、トップクラスには行けず、鬱屈していたところに、自宅が神奈川県の相模大野に引っ越して、さらに家が遠くなって、ラッシュアワーで学校まで1時間かかるようになったんです。その行き帰りに本を読むようになって、それが唯一の息抜きでした。図書館で本を借りてきたり、父親がNHKに勤めていて文学青年でもあったので、家にも本がたくさんありました。それで、羽仁五郎の『都市の論理』(勁草書房1968)がベストセラーになっていたので読んでみたり、岩波書店の旧仮名づかいの本は、ぜんぶ読んでいました。

奥地 そうですか。「てふてふ」なんて書いてあったりしましたよね。

保坂 そういったかたちで本に救いを求めていたんですが、その後2年生になって担任が温厚な先生に代わって、学校のなかで漫画雑誌を紹介してみたり、少し楽しくやりだしたんです。ただやっぱり、その先生も「もうそろそろ受験という2文字に青春をかけてみませんか」みたいな、そういう言い方をするわけです。「何も考えずに受験の2文字だけを考えればいいんですよ、みなさん」みたいに言うので、それには相当反発しました。

奥地 部活などはされてたんですか。

保坂 柔道をやっていました。おかげで、のちに交通事故で車にはねられたときは、とっさに受け身ができました。
 それと、2年生の文化祭では、クラスで社会問題の研究をやったりしました。

奥地 文化祭では、どんなものを出されたんですか。

保坂 ジョークだったんですけどね。当時、全共闘の学生や、労働組合に飽き足らない若者たちが「反戦青年委員会」というのをつくっていたんです。それで、模造紙に、まず「反戦」と大きく書いて、戦争はいけない、平和主義、平和が大事だということを書いたんです。その次に「青年」と書いて、五木寛之の『青年は荒野をめざす』というベストセラーからの引用を入れた。そして一番右に「委員会」と書いて、学校の委員会活動を活発にするにはどうしたらいいかということを書いたんです。パッと見ると「反戦」「青年」「委員会」と並んだ見出しが見えるけど、中身をよく読むと、それぞれちがうことが書いてあるという、一種のおふざけでした。しかし、自民党の区議会議員がその見出しに目を止めて、校長室に駆け込んだんです。それで「これは、ついに中学で紛争が起きた」という話になって、校長は青くなった。それで撤去しろとなってしまったんです。ジョークが通じなかった。

奥地 中学生らしい校内活動だったんですね。

保坂 ややシニカルなね。ほかにも、「砦の囚人」というアイロニーのこもったタイトルのミニコミ誌を出していました。『砦の上にわれらの世界を』(東大全共闘編/亜紀書房1969)に影響を受けて、「砦」という言葉を使って、「囚人」というのは、自分たちは何もできない檻の中にいる囚人だという意味ですね。そもそも学校から外れる予定はなかったので、自分たちを囚人と位置づけていたんです。

●学校から拒否された

 そうしたなか、中学2年生のあるときに、べ平連(*1)の集会が清水谷公園であったんです。その公園は麹町中学校から歩いて7〜8分のところにあって、通学路ではないんですが、「仲のよかった友人と人生を語りながら散歩していたら、たまたま集会があった」というストーリーを組んで、わざわざ制服・制帽で集会に行ってみたんです。
 ただ、「人生を語る散歩の途中」ですから、3〜4分ぐらいだけいて、「もうそろそろ出よう」と会場の外に出ました。しかし、その集会には中学生も「中学生べ平連」みたいなかたちで参加していて、中学校の校長会から監視要請みたいなのが出ていたんですね。それで、制服・制帽で目立っていた僕たちは「おまえら中学生じゃないか」「どこの学校だ」という話になって、通報されてしまったんです。僕たちからすれば、制服・制帽を着て、集会に参加していないということを表しながら行ったわけです。にもかかわらず、翌日、学校の生活指導の先生は「ついに一線を越えたな」と言われて、「大胆不敵にも、制服・制帽で反戦集会に参加した」ということになってしまった。でも、たった3〜4分なんですけれどもね(笑)。

奥地 大人側の過剰反応なんですね。

保坂 それで、生徒指導の先生には「これで地元の学校に戻ってもらうところだけれども、今回は最後通告とする。今後いっさい、こういうことをしなければ、いまの学力なら充分いい高校に入ることができるじゃないか」と言われました。
 僕も、いったんはそれを受けいれたんですが、受けいれたとたん、10日ぐらい脱力してしまったんです。実際には集会に参加したわけじゃない。偶然、通りかかって3〜4分いただけなのに「一線を越えた」ことになってしまった。それで、家にこもって、まったくふとんから起き上がる気も湧かず、何をする気もなくなってしまいました。
 そして、10日ぐらい経って、なんか憑き物が落ちたようにガラッと変わっちゃったんです。中学3年になってからは、「砦の囚人」の「囚人」をとって、「砦」という新聞をつくり始めました。
 しかし、学校としては、一線を越えたところで、さらに越えてきたということで、ほとんど授業には出してもらえなくなりました。

奥地 授業に出してもらえないというのは変な話ですね。

保坂 ですから、僕の場合は、登校拒否とはちがうんですね。むしろ学校から拒否されたのかもしれない。学校には行っているんだけど、教師からは「問題児の考え方を直す」というアプローチを受け続けました。麹町中学校は全校生徒1500人のマンモス校で、教師も80人くらい、生活指導部の教師も何人もいて、そのトップの先生が1週間かけて僕を説得してみたけどダメだった。その後、入れ代わり立ち代わり教師に説得されて、果てしなき議論を経験したんですが、これはのちに国会議員になってから、とても役に立ちました(笑)。僕のほうは、論理的にいろんな話をするんだけど、結局は「俺の立場を考えてくれ」という話になっちゃうんですね。

奥地 先生が生徒に?

保坂 最後は、泣き落としです。最初は損得論ですね。「中学でこんな問題を起こすようなことをやっていると、もう高校へは行けない。行けないとどうなるかわかるだろう? もう、地獄に落ちるんだ。学歴が中卒じゃ一生浮かばれない。だから、そんな変なことしないで、高校に行ってから、おおいに政治活動をすればいい」と。そこは無責任ですよね。

奥地 それは、不登校の子たちが言われたことと重なりますね。

保坂 似ています。「高校へ行ってからやれ」あるいは「大学を出てから、ジャーナリストでも何でもなりなさい。世の中に言いたいことを言うには、ちゃんと階段を踏んでいかないと相手にされないから」と言われた。しかし、そこは古今東西の文学作品を読んでいた影響なのか、中学生がいささか早く目覚めたかもしれませんが、いったん、そこで自分をごまかしてしまうクセを覚えると、のちの人生も最後に悔いることになってしまうのではないかと思って、「先生どうですか」と、そういう話をずっとしていたんです。

奥地 仲間というか、友人たちは、どんな感じだったんですか

保坂  友人たちはね、僕が暴力をふるっていたわけでもなく、ただミニコミをつくって配っていただけなのを知っていたので、協力的だった子が多かったですね。「難しいことを言ってるのでよくわからないけど、言いたいことがあるんだ」みたいな反応で、排除する感じではなかったです。

●全校生徒の前で引きずられ

 問題児とされたのは、もうひとりいましたけど、その子は、あまり学校に来なくなった。それで、対立状態が続いていたさなかに、教頭が出てくるんです。教頭は「言いたいことがあるのはわかった。だったら、なんで生徒会でやらないんだ」と言ってきたんです。僕が「生徒会でやろうとしても、ぜんぶ遮断されましたよ」と言うと、「いや、そんなことはない。私が君の発言を保証する。だから、もう、自分でガリ版のチラシをつくったりするのは、いっさいやめなさい。その代わり、生徒会をつかって言いたいことがあればやったらいい」と提案してきたんです。なおも僕が「いや、そんなこと言ったって無理でしょう。これまでだって、そういうことは認めてくれなかったですよ」と言ったら、かっと目を開けて「男と男の約束だ」と言って、手を出して握手してきたんです。

奥地 お芝居みたいですね。

保坂 教頭が、生徒会での発言を保証すると言うので、僕は約束を守ってチラシを配布することをやめました。そして、生徒会総会が11月にありました。提案したい生徒が、箱の中に議題を入れるんですね。結局、議題を提案したのは、僕が入れた1件しかなかったんです。だからどうしても、僕が全校生徒1500人の前で議題の趣旨説明をすることになった。どんなことを話そうかと考えていたところ、教師に呼び出されて、「君が明日登壇することになってしまっているようだが、職員会議が開かれて、これは認めないということで決定した」と言われました。「それはおかしい。男と男の約束をしたんですよ」と言ったら、「それは教頭先生個人のお考えで、学校の総意では認めない。生徒会はままごとじゃないんだ」みたいなことを言ってきたんですね。
 そこで翌日、生徒総会になるんです。1500人がひしめいて立っているところで、「意見はありませんか?」と、司会の生徒が言ったとき、「あります」と言って、僕は演台に駆け上がったんです。それで、「みなさん、こういうことがありました」と言おうと思った瞬間、マイクのスイッチが切られたんです。そして、生活指導の教師が「発言させるから、手続きを踏め」と下から大声で言ってきました。「君は指名を受けていなんだ」と。まあ、それは形式論ですが、「1回降りて、議長の指名を受けろ」という言葉を半分信じて、いったん下に降りたところ、はがい締めにされて、全校生徒の前で引きずられていったんですね。教師は「いまのはなかったことにして進めろ!」と大声を張り上げていました。

奥地 それは屈辱ですよね。

保坂 全校生徒が見ている前での出来事で、強烈な思い出としてだけではなく、それ以来、生徒間の雰囲気は、学校のほうがおかしいんじゃないかというふうに一変しました。だって、手続きにのっとって発言予告してやったことが、そういうふうになったわけですからね。

●内申書裁判に

奥地 それが内申書裁判につながっていくわけですね。

保坂 そうです。内申書作成のときに、担任の先生が「君の思想は難しすぎるので、単純な俺には理解できない。この学校にはたくさんの先生がいて、俺より優秀な先生がいるから、内申書を書いてもらう先生を探しに行け」と言ったんですよ。

奥地 えっ、変な話ですね。

保坂 その理由は、後でわかるんです。結局、文面を示されていたんですね。内申書の文面を書くのに彼の裁量の余地はなかったんです。この生徒はこんなにいろいろ学校の言うことをきかないで、政治がどうしたという趣旨の文面が示されていて、担任はそれを書き移すしかなかったのだけど、それは書きたくなかったんですね。それまで担任は「内申書に書くようなことは絶対しない」と言っていたので、それを裏切るようなことは言えなくて、「誰かに書いてもらえ」と乱暴な話になっていたわけです。
 内申書は、生徒全員に出席番号順に渡すんですが、僕の番になったとき、名前をわざわざ呼んで、「君は、なし。直接、君には渡さない。そういう特別な扱いだから」と言われました。僕の内申書は、教師が志望校に直接持っていって、和光高校の面接では、内申書を広げられて「君はここまで学校に反発したんだよね。じゃあ高校に何しに来るの?」とか、「君は沖縄問題に対してはどういう見解だね」とか「いじめについてはどう思うかね」とか、思想犯の取り調べのような面接でした。その後、そのことは、いまの和光学園理事長の古関彰一先生にもお話しましたけどね。
 あとでわかったんですが、成績は上位で十分入れたのに、面接態度がDということで最低評価でした。Cから下は入れないんです。まあ、思想上の差別ですね。それで、学校を訴えるという議論が起きたんです。そういう内申書が作成されたということと、卒業式では大勢の先生に引きずられて組み伏せられたまま卒業式を迎えたことがあったので、それをもって学校を訴えるべきだと。

奥地 それは、すごいですよね。まだ中学を卒業したぐらいの年齢の子たちだと、理不尽なことがあっても、裁判まではなかなか考えないと思うんですけど、どういう経緯だったんでしょう。

保坂 僕自身は、さめた少年だったので、「裁判なんかやってもどうせ負けるに決まっている、時間のムダだ」と思っていて、「どうしてもやりたいという大人たちがいるんであれば協力してやってもいい」という感じでした。

奥地 そういう心境だったんですか。

保坂 ええ、かわいげもなく生意気でしたね。麹町中学校は進学校だったので、内申書で高校をぜんぶ落ちたということや、卒業式もそういうかたちで終えたということで、「なんとかわいそうな」というような記事も出たんです。「15の青春を返せ」「麹町中学の悲劇の少年」みたいなね。

●自分自身はサバサバしていた

 ただ、僕自身としては、定時制高校に入って、かえってサバサバした部分がありました。というのは、受験、受験という中学1年から始まった痛烈な受験競争のベルトコンベアーから、ようやく降りることができた。いろいろなことがあった中学3年のあいだも塾に通っていて、学力で追いつこうとかしてましたからね。ですから、降りたことで、かえってえらく充実感を覚えてたりしていたんです。そこへ「かわいそうだ」という大人たちがいっぱい出てきて裁判をするというので、僕の実感とは、ちょっとズレていたんです。

奥地 なんか、自分らしく生きている感じがしたということですかね。

保坂 15〜17歳というのは、自分が大きく変わる時期ですよね。その時期に、14〜15歳のときの話を人前で延々としなければいけなくなるというのは、苦痛でした。だって、中学生のときの話は、一過性でしかないでしょう。いま、めずらしく5年ぶりくらいで当時の話してますけど、15〜17歳のときに、くり返して話すのは、かなり苦痛だったんです。10代後半になると、中学時代のことはものすごく遠い過去のことに思えて。でも、それはしょうがないということで、結論から言うと、学校を相手に裁判を起こしました。それで、年に何回かの弁護団会議が開かれて、そこで法律論だとか、憲法論だとか、そういうことを耳学問で学びました。

奥地 でも、その後の人生には、それがぜんぶ役に立っているんですね。

保坂 そうですね。それとやっぱり、たくさん本も読みましたね。

奥地 その後、定時制高校も中退されるんですよね。

保坂 そうですね。東大全共闘は、エリートですよね。高校でも、日比谷高校とか、青山高校とか、進学校で紛争が多かった。当時の僕にもエリート意識はありました。中学生のときは、中学生ですら運動を始めたということで、メジャーな歴史に残る役割ができるんじゃないかみたいな、少年特有のヒロイズムみたいなものが、あったわけですね。
 ところが70年代に入って、連合赤軍事件や学生どうしの内ゲバ事件が起きてきて、何か対立すると、おたがいに殺しあうみたいなことが現実に起きてしまったとき、ショックを受けたんです。このときの失望感で、学生運動やその延長では世の中は絶対に変わらないと思って、学生運動みたいなものに対しての熱も幻想もさめたところがありました。それで、「高校に入り直して、留学でもしたらどうか」とか、いろいろ誘いもあったんですが、「せっかくベルトコンベアーから降りたんだし、この国やこの社会がどうなっているのか、旅をしながら見てやろう」と思ったんですね。残念ながら学生運動では世の中変わらないけど、自分が気づいた素朴な原点、世の中おかしいと思ったのはまちがいではないだろう、と。でも、何がどうおかしいのか、どういうメカニズムでこの国が動いているかを、自分で働きながら見てやろうという気持ちでした。

奥地 家を出て、ひとり暮らしを始められたんですよね。

保坂 そうですね。19歳ぐらいから、いろんなところに行って働いたり、働いたお金で本を読んでいたりとかしていました。

奥地 そのころも充実感みたいなものはありましたか。

保坂 いや、そのころは、正直に言って、充実感どころか挫折感です。高校、大学と行く将来を、意地を張って捨てたわけじゃないですか。そこで思い返してもどろうと思えば、もどれたかもしれない。でも、どこか意地っ張りなところがあるので、絶対もどらないと決めてました。ただ、日々アルバイトをしても満足できないので、ほんとうに短い1週間のアルバイトをしていました。

奥地 中卒で仕事を探していたわけですよね。

保坂 ええ。いろんなことをやりました。たとえば、こんなこともありました。定時制高校中退と書いて履歴書を出したら、面接した人が「おもしろい」と言ってね。僕も「なんだってできます」と言ったら、「編集の仕事どうだ」と言われた。300人ぐらいの会社で基本は大卒採用だったんですが、面接にあたった専務だかの決済で、「おもしろいから採る」となって、正社員になったことがあるんです。
 社内報では、なぜか定時制高校卒業ということになってましたが、そのままいれば、けっこう高いボーナスも出してくれると言うし、サラリーマンにもなることもできたんです。定時制高校中退で正規雇用で会社に入るなんて絶対にできないと言われていたなかで、じゃあ、ほんとうに入れないかどうか1回やってみようと、試したよう感じでした。
 でも、3カ月ぐらいやって、安定した仕事と給料をもらってサラリーマンをやっているんだったら、これまで、ぜんぶを捨てる必要もなかったなと思って、辞めてしまったんですね。19歳のころの話です。
 その後、一番こだわってきたのは、言葉です。

奥地 言葉というと。

●自分自身の言葉を

保坂 大学ノートに、いま自分がこだわっているものは何なのかを3行ぐらいずつ書いていくんです。3行ぐらい書いてみると、誰かが言っていそうな、どこかの本に書いてある影響を発見することができる。これは、自分の言葉ではないと気づくわけです。昔、学生運動の影響を受けてチラシやミニコミをつくっていたころは、文章を書くのは速くて無尽蔵に書けたんだけど、それは結局、仮のもので、自分自身の内側から発してくる言葉じゃなかった。そのときに出会ったのが魯迅の「青年を殺戮するのはやはり青年である」という短い言葉でした。これは、中国の辛亥革命のときに書かれたもので、魯迅は進化論者で、当時の若者が、やがて頭の固い年寄り世代と代わっていけば、世の中がよくなると信じていたんですね。しかし、青年のなかの進歩派と保守派が激突して殺しあうことがあって、それを嘆いて「青年を殺戮するのはやはり青年である」と言ったわけです。非常に含蓄の深い言葉ですよね。あるいは「急場の失言」というのも、「急場の失言の根拠とは考える時間がないことではなく、考える時間があるときに考えないことにあるのだ」と言う。魯迅は非常に緊迫した状況のなかで、ペンネームをいくつも変えながら、そういうエッセイを書いていました。そのエッセイは心の内側に入ってきて、その1行をずっと眺めながら、自分も、こういうふうに書いてみたいと思って、2時間ぐらい毎日喫茶店に入っては、うんうん言いながら書いていました。

奥地 そこで自分と向き合ったということですね。

保坂 誰にも頼まれてないですけれども、それを1年半ぐらい続けたんです。その結果、自分なりの考え方みたいなものができた気がします。考え方ができてくると、文体も生まれてくる、だから、僕の文章の特徴は、引用がぜんぜんないということです。

奥地 それが、自己確立の土台みたいなことだったんですね。

保坂 驚いたのは、その後、21歳で最初にもらった執筆の仕事は、月刊『宝島』という雑誌の100ページにわたる特集で、ぜんぶ任されたんです。
 当時、ミュージシャンの喜納昌吉さんと出会って、2カ月ぐらいかけて行動をともにしたんですね。そのときに起きたことを記録して、章立てして「喜納昌吉の世界」という特集を書き下ろしで書いたんです。100ページを1週間で書きました。そのときは、流れるようにというか、自動筆記のようにペンが動いて、するすると書けました。そのために訓練していたわけではないんですけどね。
 結局、その後も言葉の仕事をずっとやっていくことになり、中高生向けの『学校解放新聞』をつくったりしました。

●反抗には理由がある

奥地 『学校解放新聞』のきっかけは、何だったんですか。

保坂 子ども向けの雑誌、『セブンティーン』や『明星』で仕事をしていて、学校現場に行くことが多かったんですね。子どもが読者ですから、その代理人として、学校事件が起きると現場に行っていたんです。ほかに取材に来るのは、教師や親向けに情報を発信する既存のマスメディアばかりですからね。そこで出会ったツッパリ連中の、とんがり頭に長ランみたいなヤツと一晩中、話をしたりしていると、実はすごい体罰があって、「それに反発して俺たちはやってるんだ」みたいな話とか、マスメディアがつかんでいない話をどんどん聞けたんです。それを雑誌に書くと、すごく反響があった。当時、校内暴力は「理由なき反抗」と言われていて、「食品添加物のせいで暴れる子が多くなった」とか言われたりしてたんだけど、やっぱり理由はあって、そういう暴力が起こることに気づきました。
 一方では戸塚ヨットスクールの問題なども出てきて、当時、僕の周囲にいた若者に呼びかけて記者になってもらって、ミニコミで、月刊で新聞を出してみようとなったんです。それが『学校解放新聞』で、一時は5000部ぐらいまで伸びました。

奥地 そのころ、『ここならGOO!!』(ジャパンマシニスト社/1992)というビデオをつくられてましたよね。『学校解放新聞』編集部の伊藤書佳さんが私たちのところにも訪ねてこられて、いろいろな居場所を映像で紹介されていました。80年の終わりぐらいだったと思いますが、おかげで居場所のつながりの活動が深まりました。

保坂 それは、90年代初めごろですね。話をもどすと、雑誌で学校現場の取材を始めるまでは、僕自身の意識では、やっぱり自分だけがつらいと思ってたんですよね。言葉と格闘していたときも、18〜20歳ぐらいまでは、子どもたちが学校で何をしているかということに興味がなかったんです。
 ところが校内暴力が起きてきて、取材に行ってみると、当時の暴走族文化に影響を受けた子たちが、精いっぱい粋がって、強がっている。でも、その彼らが、卒業式では生活指導の先生と抱き合って泣いたりしているんです。マスメディアは殴るシーンを中継したくて待っているから、抱き合って泣かれちゃったら困るわけです。なぜ彼らは泣いたのか。彼らは学校が好きだったんですね。それで、僕が『セブンティーン』に書いた「ツッパリたちがオイオイ泣いた」という記事は、すごく反響を呼びました。
 ツッパリだからということで学校から排除された彼らと、学校から叩かれ、つまみ出された僕の経験は、理由はぜんぜんちがいますけど、よく似ていますよね。彼らの話を抵抗なく聞けたのも、そういうところがあったんだと思います。心がつながるものがあった。僕がくぐった中学での体験というのは、痛みや傷でもあって絶望感があったわけで、あまり多くの人にしてほしくない体験ですが、それが、彼らと会話が可能な要素としてあったんですね。

奥地 そうでしょうね。「わかるなあ」という感じでしょうね。

保坂 なんとなく、においでわかってくれたんでしょうね。そこで子どもたちが支持してくれた。

●国会議員に

奥地 そうでしょうね。大人たちは指導しようとするけど、そうじゃなくて、共感というかいっしょに考えて、話もできる立場だったんですね。その後、1996年に国会議員になられたわけですけど、どうして議員になろうと思われたんですか。

保坂 それまでの仕事は、子どもたちの不幸な事件で忙しくなる仕事だったとも言えるんですね。鹿川裕史くんや大河内清輝くんのいじめ自殺事件(*2)が起きたり、石田僚子さんの神戸高塚高校の校門圧死事件(*3)とかありましたね。そのたびに事件現場に飛んで行って取材して、レポートを書き、ときにはテレビで語り、それが本になったりということを、くり返していたわけです。30代になって、教育委員会から「こういうケースはどう考えるか」と相談を受けたりするようにもなって、いじめが起きてしまう学校の日常があるなかで、いざ命の危機があったとき、救命されるセーフティティネットのいじめ110番というか、いじめ119番のようなものがあればいい、と考えていたんです。
 そのころ、イギリスにいじめ問題を視察に行っていた牟田悌三さん(*4)が世田谷区教育委員会にいらして、牟田さんを代表にして、なんとかいじめを暴走させないネットワークをつくろうと、「いじめよ、とまれ!」というシンポジウムを96年にやったんです。そのときは、子どもがいよいよピンチになったときに、地域のネットワークでどう支えられるかという話で、たいぶ盛り上がったんです。シンポジウムの会場の中学校には、世田谷区内だけで500人も集まったりしていました。それはジャーナリストとしてよりも、社会活動家として子どもを守る仕組みをどう構築するかという関心だったわけです。折しも子どもの権利条約が批准されたころでしたしね。一方で、子どもについての活動とは別に、議員会館の土井たか子さんの部屋に足しげく通ったりもしていました。
 あるとき、イギリスで、子どもが子どものいじめの相談にのるという活動をしていることを知って、その活動をしているロンドン郊外のグランド・バーリーという学校の子どもをつれて来て、世田谷区の松沢中学校で交流したことがあったんです。その子どもたちが全員帰ったあとのことでした。電話がかかってきて、「衆議院が解散して、たいへんなことになっている。立ち会ってくれ」と言われて、1週間ぐらい立ち会って、社民党の党首を決める立会人として村山富市さんから土井たか子さんへの交代の道をつくったんです。そこで「ここまで付き合ったんだから、立候補してくれ」と土井さんに言われたんですね。その話があったのが9月30日、選挙があったのが10月20日。だから、そのときのポスターが、「子ども大好き、だから守りたい」で、子どものことしか言っていない。当選すると思わなかったでしょう(笑)。

奥地 まず、思わなかったです。学歴が中卒で生きていて、国会議員にまでなるんだというのが、わりと衝撃なんですね。親の会やシューレ関係でお呼びしたのを覚えていますか。何回か来てもらいましたが、子どもたちもね、なんかすごい励まされました。学校を順番にあがっていかないとダメみたいに思われているなかで、保坂さんは自分らしいあゆみ方をしてて、こうやってやっていけるんだみたいに思って、それには非常に支えられたんですよね。

保坂 そうですか。僕の場合は、いろいろ運がいい部分もあったんです。その当時、中学生で運動に参加して社会へ出た人は何人かいますが、全員が楽しくやっているかといったら、そうではなくて、つらい時期を長く過ごした人もいます。でも、僕の場合、裁判をやる大人たちに対して生意気な態度をとってはいたけれども、定期的にしゃべる場があったことで、自分の位置を確認できたのがよかったと思います。それから、メディアのなかに全共闘世代の編集者がいたことですね。よく僕を使ってくれたと思います。それと、ちょうど教育問題が活発に論じられた時期でもあった。そういうことも要素としては、プラスだったかなと思います。

奥地 国会では、質問王ということで有名でしたね。国会議員としては、こんなことができるんじゃないかと思っていたことはありましたか。

保坂 もう少し大きな政党の議員になっていれば、もっといろいろできたかもしれないですけれども、社民党にいて、当時、議員が15人しかいなかったんです。しかも、その15人のなかに前議長、前総理がいたりして、僕が国会のあらゆる委員会で質問しなければいけないというスパーリングレッスンみたいな状態だったんですね。そういったなかで、文教委員会(現在の文部科学委員会)でチャイルドラインの話をしたら、小杉隆文部大臣(当時)が興味をもって、いっしょに視察に行こうという話になったり、議員連盟をつくったりしました。それと、子どもの虐待をテーマに児童虐待防止法に関わったりしたことが、議員としての最初の段階での仕事ですね。

奥地 とにかく、小さい党にいながら、やれるだけのことは、いろいろやっていただいたのかなと思います。とくに、子どもの側に目を向けろというところは、インパクトがあったと思います。

保坂 僕が議員になったころ、東京シューレの子どもたちが児童福祉法改正問題でやってきましたね。

奥地 そうですね。あと、通学定期の問題がありました。なんでフリースクールに通うのに通学定期が使えないんだというので運動したのですが、子どもたちも会いに行ってお願いしたり、やっていただきましたよね。その後、区長になられて、いまがあるんですけれども、区長になられようとした経緯は、どういうことだったのでしょう。


●世田谷区長として

保坂 区長になるつもりはなかったんです。これもまた、なんか転がる石みたいなもので、その前までは、政治と言ったら永田町で、国会以外はリアルに考えたことはなかったんです。ただ、2009年の政権交代選挙に敗れて浪人だったときに、区長になってくださいという話があって、最初は丁重にお断りして「ほかの人を探してください」と言っていたんです。
 その後、東日本大震災と原発事故が起きて、杉並区長の田中良さんと話して、あの修羅場のなかで、物資を用意して南相馬へ行こうとなったのです。というのは、最後は選挙区を杉並に移していたんですね。杉並区役所の前に僕の事務所があったんです。それで、杉並区の区長室で、作戦会議みたいなのをやりました。あれだけの大震災なのに、国会の議員会館に行っても、みんなインターネットとテレビしか見ていなかったんですよ。それ以外の情報は何もなくて、結局、官邸にかぎられた情報が集まっていた。官邸にアクセスするのはすごく大変だったんですが、僕がアクセスできて、福山哲郎官房副長官(当時)などにパイプをつないで、杉並区が支援物資を載せたトラックを何台か南相馬市に向かわせたんです。しかし、南相馬市まで20キロの地点で、すべて通行止めにしていたんです。だから、物資が何も入らなくなっていたんです。「それはおかしい、市内救援用なので、物資を入れるように」と言って、話がついて搬入できたんですが、そういう役割をやっていたんです。
 その後、南相馬市長の桜井勝延さんと会ったんですが、国からも県からも東京電力からも、何の指示もないなかで、「全責任は自分にある」と言って、奮闘されていました。そこから帰ってきた翌日に、世田谷区長選挙に出てくださいと唐突に言われたんです。選挙は4月24日と目前に迫っていて、4月6日、とりあえずの立候補会見をして、19日間の選挙戦をしながら、政策を練って、チラシをつくりました。

奥地 すごいですね。

保坂 僕が世田谷区長選に出るとは誰も予想していなかったんです。僕自身、知らなかったんだから(笑)。

奥地 いやあ、びっくりしましたね。それで見事、当選されて、区民の立場に立った区政を目指されてきましたね。私たちは教育の多様性を大事だと思っていて、それと重なるのですけど、世田谷区では、性の多様性についていち早く取り組んでこられましたよね。

保坂 はい。

●教育の多様性は

奥地 行政も法律も変わらなくても、取り組むというところに、みなさんすごく励まされたと思います。それと同じように、教育の多様性も、もっと認められていいんじゃないかと思います。学校教育1本になっていて、不登校になったら学校へ戻れというのは、一人ひとりの子どもの学ぶ権利を考えたら、おかしいんじゃないかと思うんですね。それは保坂さんの長年の活動と重なるんじゃないかと思うのですが、そのあたりはいかがでしょう。

保坂 ようやく時代が追いついてきてくれたという気がしますね。学ぶとは何かというのは、別に記憶することではなくて、問いを立てて、その構築した論理が現実に通用するかどうかやってみて、そういう反復のなかでやっていく力が学びだと思います。それは、むしろ遊びのなか、趣味のなかにもあることだと思ってきたんです。
 最近、AIショックと言われていますが、記憶するとか、インターネットで検索するという段階を超えて、いろんなことは機械が知っているという世界になってきたときに、記憶型の競争というのは、どうも歩が悪くなってきたわけですね。
 じゃあ、それ以外の、決定的な回答がない難題に対して、比較的それでも近い回答を準備する力ということで、アクティブラーニングとか言いだしてきてますね。それは、フリースクールも含めて、学びとは何かを問いかけて来た人たちの、ある種の共通言語みたいなものと、わりと近くなってきているという印象があります。最近も文科省の幹部と話す機会がありましたし、たとえば馳浩元文部科学大臣も、世田谷区の夜間中学に何回も来ています。夜間中は少人数で、外国人が多いんです。

奥地 教育機会確保法には、夜間中学のことも入っていますね。

保坂 僕も、これほどちゃんとやっているんだと、自分の区でありながら驚きました。ほかにも、文科省とシンポジウムなどでいっしょになる機会がありますが、いま考えているのは、スタンダードな公立学校をガラッと変えていくのは、なかなかいろいろ難しい点があるけれども、たとえば90万都市に、いくつか特徴ある学校ができてもいいんじゃないかと思っています。たとえば、北欧にあるような寄宿制の学校ってありますよね。

奥地 フォルケホイスコーレ(*5)とかですね。

保坂 2年間、合宿しながらの学校だとか、そういったことを多様に考えていこうと。それから、やっぱりできすぎる子もはみ出しちゃいますよね。最近も学校へ行って、そういう教室で孤立している子と話したりしてみました。いろいろやってみる、またゆっくりと休むことも含めて、子どもには可能性があると思っています。
 いまひとつの鍵は、放課後の居場所ですね。これは、遊びも含めて、もっと使えるんじゃないかなと思ってます。世田谷区では「そとあそびプロジェクト」という名前で、冒険遊び場をもっと増やしていこう、外で遊ぼうというプロジェクトを、区をあげてやっています。それから発達障害の子たちの支援ですね。放課後の居場所には、個別学習の最適な部分もあるので、分断するのではなくて、その子にとってフィットする学習支援もやれる。しかし、それには、やっぱり予算も人手も必要ですよね。それもやっていきたいと思っています。

奥地 フリースクールの支援って、なかなか難しくて、教育機会確保法も、経済的支援が検討事項にまでは入ったんですが、具体的には決まらなかったので、次を目指しています。世田谷区内での応援などは、いかがでしょう。

保坂 世田谷区でも2カ所、公立のほっとスクール(適応指導教室)があります。せっかく学校に行かないで統一したカリキュラムから離れているのだから、自由なだけではなく、もう少しおもしろいプログラムをやってみたらと思っています。やりたくないのに強要しなくていいわけですが。

奥地 そう思いますね。

保坂 ほっとスクールは、今度、3カ所目をつくるんです。そこは、もうひとつ特徴のあるものをつくりたいと思っています。

奥地 そうなんですか。時代の動きもありますね。お時間がなくなりました。今日はどうもありがとうございました。
--------------------------------------------------------------------------------


*1 ベトナムに平和を!市民連合。1965年、哲学者の鶴見俊輔や作家の小田実らが呼びかけて始まった、無党派の反戦運動。

*2 1986年、東京中野区富士見中学2年の鹿川裕史くん(当時13歳)がいじめを苦に自殺。遺書には「俺だってまだ死にたくない。だけどこのままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ。ただ俺が死んだからって他のヤツが犠牲になったんじゃ、いみないじゃないか。だから、もう君達もバカな事をするのはやめてくれ、最後のお願いだ」と書かれていた。1994年、愛知県西尾市立東部中学校2年の大河内清輝くん(当時13歳)が、いじめを苦に自殺。多額の現金をとられる、暴行がくり返されるなどのいじめがあった。遺書には、いじめの実態や家族への気持ちが書かれていたほか、「借用書 平成6年8月 114万200円 働いて必ず返します」などと書かれていた。

*3 1990年、兵庫県立神戸高塚高等学校で、同校の教諭が遅刻を取り締まることを目的として登校門限時刻に校門を閉鎖しようとしたところ、門限間際に校門をくぐろうとした女子生徒(当時15歳)が校門にはさまれ、死亡した事件。

*4 (むた・ていぞう 1928―2009):俳優で、数多くの映画・ドラマに出演する一方、市民活動にも多く関わった。

*5 デンマークで創始された学校。国家や外部に支配されない独立した教育内容を旨として、テストがないなど、自由な雰囲気のなかで学ぶ全寮制の学校。



posted by 種まく旅人 at 11:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月06日

9月30日 都内(東京都) 8711−8712

旅の続きです。

車が故障し、修理のために日産に行くと同型の新車のレンタカーを貸してくれました。故障の心配がないので、一気に新潟から東京に向かいました。修理に数日を要するだろうし、またどうしても会っておきたい人がいたのです。

2015年10月30日に訪問した島根県津和野町にある桑原史成(報道写真家)写真美術館を訪ねた際に「桑原さん(東京在住)に直接会いたい」と館長にお願いしたら、早速連絡をして頂き、了解を得ました。そして、この日、やっとお会いできる日が来ました。

桑原さん関連の記事は以下
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/429571808.html

http://happyhillcontest.seesaa.net/article/434398503.html

土門拳賞を受賞された報道写真家で水俣、ベトナム、韓国等の写真で有名な方です。色々お話を伺いたかったのですが、80歳を越えていまだに現役で、お忙しそうでしたので、後日メールか手紙を書くことにしました。8711番。
1のコピー.JPG

この日はもう一人会いたい人がいました。私に芸術の種を蒔いた人。名前も種生(たねお)。5年前に亡くなっていましたが、ある日その名前にハッとして「ぜひ渡さなきゃ」と思ったのです。「石田種生」は実は私の叔父で、クラシックのバレエダンサー兼振付師でした。1年に1、2度帰省しては、四方山の話をしてくれて、その数日は1年で最も刺激的な日々でした。別世界、別次元の話に聞き入り、羨ましく思ったものです。この人が叔父でなかったら、私の人生は異なったものになったでしょう。

本人はいなくてもその意思を継いだバレエ団の人に渡せればと思い稽古場に向かいました。ところが稽古場の場所を間違え右往左往。結局、この日は縁がなかったと諦めて後日に回すことにしました。

時間に余裕ができたので、都内で他に行くところはないか?すぐに思い出したのが、ギャラリーの人でした。2007年、オーストリアで開催された日中合同の展覧会に私を推薦してくれたギャラリーefのいずみさん。その展覧会を契機にその後もオーストリアで2度3度と展覧会を行い、しばらく住むことにもなり、そこからさらにイタリア・カラーラにも足を伸ばし石彫を学ぶことになりました。この一連のことは、すべていずみさんが推薦したことから始まりました。感謝を込めての種蒔きでした。

浅草にあるカフェ兼ギャラリーを訪ねました。ところがいずみさんはおらず、お姉さんが出てこられて「いずみは亡くなりました」「え!」返す言葉を失い、呆然としていると、お母さんが「これ、いずみが残していった詩ですが、これを暮石に刻もうと思っています」と以下のプリントを見せて頂きました。イギリスの神学者であり詩人の ヘンリー・スコット・ホランド(1847-1918) の『さよならのあとで』
Pのコピー.JPG

この詩を翻訳しているうちに、いずみさんの死を知り、この詩に出会うために東京に来たのかもしれないと思いました。種を渡そうとした人がこの世にはもういない、その空虚感を埋めようとするかのような詩でした。良い訳がないかと探したら、以下のようなビデオがありました。音楽と挿絵とともにこの詩を味わってみてください。いずみさんを知る人にも知らない人にも伝わる詩です。


いずみさんに8712番を。


posted by 種まく旅人 at 16:08| Comment(0) | 種受取人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月04日

再出発

しばらくご無沙汰してましたが、いよいよ再び種蒔きの旅に出ます。この1ヶ月は肉体労働的なこともしていたのですが、そのお陰で発見と進展がありました。

旅の間、食の量が減って来て以前のような食欲が無いなあと思っていたのですが、やっぱり労働不足だとわかりました。筋肉を使う生活になると、食べる量が増えました。当たり前かもしれませんが、実感しました。「あれ、こんなに食べれる!」とびっくりでした。

机上の仕事ばかりしている人には、何でもいいので肉体労働(筋肉を使うこと)薦めます。また、手を使う作業は脳を活性化させます。米作りしていたときも感じましたが、とにかく肉体労働は心身ともに健康になります。人間にとって大事なことだと思います。時代とともに便利なものが増え、面倒なことが減り、そして肉体労働が減るのは、人間の心身にとってどうかなといつも思います。きっと、ロボットは人間を退化させます。最後には生きているだけで、やることがなくなります。

「肉体労働をすると腹が減る」が発見ですが、進展は手を使うことで、日に日に血が騒ぎ出したことです。「血が騒ぐ」とは、元々の私自身が現れだしたのです。私はやっぱり作ることが好きなんですね。手を使うことで、手を使うことが好きなんだと自覚されられました。そうなると同時に、いろいろなアイデアが湧いてきて、創作物を作りたくなったのです。多分、種蒔きが終わったら、再び何かを作り出すと思います。できれば小規模に田んぼや畑をやりつつですが、手作りのものを作りたいと思います。この数年の体験と思いを生かして、素材はやっぱり植物関係です。米、もみ、わら、竹、葉、豆などタネ類などなど。

それでは、9122番から再度出発です。
7ーのコピー.JPG



posted by 種まく旅人 at 11:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月28日

山澤さんとの会話

9月2日と4日にお会いした山澤さんとの会話(4時間のうちの2時間分)をまとめました。方言がわからず四苦八苦してやっと整理できましたが、わからない部分は割愛して、理解できた部分だけを紹介します。
17.JPG

問い:山沢さんの夢は

答え:「タネとして残せるエネルギーのある植物を作ること」
つまり、在来種、固定種の栽培をすること。

問い:何故か。

答え:(種蒔夫)一例として「じゃがいも飢饉」という言葉が出ました。その場では聞き流しましたが、初めて聞く言葉だったので、調べてみました。これは、先日のブログ日記「飢饉2」でも、取り上げましたが、ジャガイモ飢饉に関わるジャガイモ栽培の問題点に関して転載します。ウイキペディアより。

ジャガイモは通常、前年の塊茎を植えるという無性生殖による栽培法を用いるが、当時のヨーロッパでは収量の多い品種に偏って栽培されており、遺伝的多様性がほとんどなかった。そのため、菌の感染に耐え得るジャガイモがなく、菌の感染がそれまでにないほど広がった。ジャガイモが主食作物であった原産地のアンデス地方では、ひとつの畑にいくつもの品種を混ぜて栽培する習慣が伝統的に存在し、これが特定の病原菌(レース)の蔓延による飢饉を防いでいた。また現代の大規模農業でも収量の多い品種に偏って栽培される傾向は強いが、種芋の段階で防疫対策が取られているほか、品種改良によって耐病性を獲得させている。(転載終わり)

旅をしていて、がっかりするのは北海道から九州までスーパーの野菜類がほとんど同じ種類であることです。耐病性のある種類かもしれませんが、もし将来それに対抗しうる病気が流行れば、日本全国に蔓延する可能性があるのです。そういうことを防ぐために、種が取れる在来種を複数の種類育てておく必要があるわけです。

ジャガイモの話になり「ジャガイモには種がある」と聞いてびっくりしました。調べてみると、確かに実がなり種が採れるようです。しかも、ナス科ナス属。
0.jpg


問い:山澤さんが使う肥料は?

答え:鳥の糞を使おうと思ったら、鶏は家畜法でワクチンを打つ義務があると知り、断念。スズメは売っているところがない。それで昔エジプトでも使っていたという鳩の糞にした。フランスからオスを、ベルギーからメスを合計130羽購入し、今では4000羽に。鳩専用の小屋を三棟建て、それ以外にも1億数千万かかったが、鳩はレストランに1羽5万円で売れる。

問い:堆肥の量は?

答え:収穫の30%を堆肥にして畑に返さないと連作障害を起こす。

苗作りの土は?

答え:一番いい土は山の土(表土)。それを火入れ(山形弁でへえれ。大きな鍋で焼く)して使用する。

問い:水は?

井戸を掘り、無菌の地下水を使っている。井戸が掘れなければ、雨水を使うと良い。
2.JPG

問い:害虫対策は?

答え:アブラムシを増やし、てんとう虫を呼び寄せる。てんとう虫が増えれば、アブラムシは減る。3年はかかるが、それで虫の害は防げる。てんとう虫は全てのアブラムシを食べることはなく、必ず2割残しておく。後先を考えずに、全部食べ尽くすのは人間だけである。
102.JPG

問い:どれくらいの在来種を育てていますか?

答え:今現在、600種類の在来種を育てているが、目標は1000種類。
6.JPG

問い:日本各地の作物全てがここで育つ理由は?

答え:水、温度、風に配慮すれば、どこでもどんな種類でも育てることができる。

問い:化学肥料について

答え:微生物が分解する過程を人間の文明が削除しただけ。化学肥料を使っても植物は困らないが、土壌の多様性がなくなる。アメリカの土地は劣化している。そのために、今後水耕栽培が主流になるだろう。

山澤さんの野菜だけのレストラン「土遊農」の一皿
9.JPG

問い:これからの農業は?

答え:50年後、ディズニーランド化するだろう。大都会の建物の2、3階以上は、法律の規制で、ガラスハウスになる。海抜の低いところでは米を作り、半径200mくらいのところで全ての食料が得られる。

また、植物に1日を数日に感じさせるようにして、光合成を短期に行えば、早く生産できる。(山澤さんは実験済み)

種蒔夫:これらの答えには、どうして?どうやって?とさらなる問いが生まれますが、ここで実際に見て、実行して知るしかないなあと思いました。興味のある方は、誰でも受け入れるそうですから、行ってみてはどうでしょう。
19.JPG

山澤さんにも何種類かのタネを差し上げ、山澤さんからは100年後も芽を出す蕎麦の種を頂きました。開封するとそれだけ寿命が縮まるので、瓶を開けないように言われました。開封と同時に、希望者にお分けします。一人数粒ずつですが、希望者は以下へ。
daiki8822@yahoo.co.jp

山澤さんとの出会いの日のブログ日記
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/454263648.html

山澤さんのインタビュー記事
https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/dango07


posted by 種まく旅人 at 08:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月25日

五郎八はボルトより速いか?

久しぶりに五郎八報告を。
毎年冬になると痩せ気味になりますが、それでも寒い浜辺でも元気な五郎八。
12ー.JPG

3ー.JPG

身体が火照ってくると(冷たかろうに、、)水に浸かります。おまけに海水を飲みます!放すときだけ口輪をしてますが、噛み付くからではなく、腐ったものでも食べ物と思えば何でも食べてしまうので、下痢気味になり痩せてしまうからです。口輪をしてからは胃腸の調子はすこぶるいいです。
1ー.JPG

五郎八の筋肉質の体を見て「速そうだねえ!」とときどき言われるので「五郎八はボルトより速いです」と、つい自慢げに言ってしまいますが、たまたま犬種別にボルトと速さを競うビデオを見つけました。


残念ながら、ドーベルマンが意外と遅くてがっかりしましたが、ビデオのドーベルマンはどう見てもヨタヨタした感じがします。犬種別と同時に年齢別も考慮しないと正確じゃないですね。ちなみにビデオのドーベルマンは8歳。五郎八は5歳なので、人間で言えば24歳(1年で約8歳の差として)の差があります。

まあ、どうでもいいことなんですが、毎日五郎八の足の速さには感動してしまうからなんです。広いところに放すと、あっという間に点になります。
PB020452.JPG

犬好きな方へ:カテゴリー「五郎八物語」は以下です。
http://happyhillcontest.seesaa.net/category/24917983-1.html



posted by 種まく旅人 at 08:32| Comment(0) | 五郎八物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月23日

飢饉 4

さて、今日は備蓄したものさえなくなったらどうするか。ごく稀に日本人でも餓死する人がアパートで見つかったりしますが、今の日本ではアフリカ諸国のような餓死はあり得ないことです。しかし、日本では実際にはどういうふうになるのか、どうするのか、考えてみました。

1、サバイバル生活

私の経験から話しますと、福島原発事故の後に原発に反対して電気料金を払わないことがありました。島根県ですから、中国電力(島根原発)に対してですが、その後電気を止められてしまいました。3ヶ月くらい電気のない生活を送ったときに、飢餓というレベルではないですが、食べ物に困った経験があります。と言っても、おかずだけです。

春から夏にかけてでしたから、一番困ったのは冷蔵庫でした。食べ物が保存できません。遠いスーパーで買い物して1、2週間保存しておく生活をしていたので、それができなくなりました。毎日スーパーに行くには遠すぎます。

ただ、米は作っていたので十分にありました。スパゲティ等麺類もありました。穀物には困らなかったのです。しかし、穀物ばかり食べるのも難儀なことで、どうしておかずを得るか?が問題でした。

無論、他の作物も作っていましたが、自分が好きな自然薯や落花生が主だったので、まだ土の中。しかも、それらも穀物みたいなもの。他には十分な野菜がありませんでした。そこで、家の周辺を歩いてみました。田んぼ、畑、山、、、、。まず、田んぼの水路にあったのがセリでした。それが50センチの幅で数十mありました。それが主なおかずになりました。

山の中に入ると、、、タケノコ、フキ、フキノトウ、ミツバ、タラノメ、ゼンマイ、コシアブラ、コゴミ、ノビル、ワラビ、タンポポ、ヨモギ、などなど、人からも教えてもらったのですが、食材が豊富にあることを知りました。調理方法を工夫すれば料理数も増えます。苦肉の食料品とはいえ、都会じゃ贅沢な食材です。

肉魚はありませんが、イノシシ被害が多いところでしたから、罠を仕掛けて動物も獲ることも不可能ではありませんでした。無論、湧き水は出ていますし、「水も食もあるのは山の中だ」とその時に実感しました。

というわけで、私としては、究極食と水に困ったら「山に行こう」と思っています。また、山の中がいいのは、精神性が高まることです。周りが全て自然ですから、当然のことですが、町中にいるのとは異なった精神性が生まれます。五感も磨かれて敏感になります。特に物音にはとても敏感になります。ちょっとした物音に動物の気配を感じて、危機感を抱かざるを得ないからです。また、安全を確かめるための味覚や臭覚も磨かれます。つまり、自分の身の安全のための五感が働くのです。それに比べれば、町中はあまりに安全すぎて、退屈なところです。ただ、いざとなれば(災害時とか、戦争とか)都会が一番危険ですけど。

山の中でも電波が届きにくいところであれば、ネットや電話が使えなかったりするので、そういう現代文明から隔離されることで、さらに人間的、動物的になっていきます。それが怖い人もいるでしょうけど、そもそも人間とは何か?ということに直面することにもなります。

山の中の生活といえば、終戦を知らないまま、グアム島に28年間も潜伏し、奇跡的な生還を果たした元日本兵・横井庄一さんがいます。調べてみたら、記念館があり、当時生活していた穴も実物大模型で展示してあります。興味のある方は以下です。サバイバル生活には参考になりそうです。

横井庄一記念館
住所 :愛知県名古屋市中川区冨田町千音寺稲屋4175
時間 :10:00〜16:30
開館日:日曜日のみ開館

網走刑務所からの脱獄犯、白鳥由栄も寒い北海道の山中で生活していました。検索したら、以下のようにありました。

「白鳥は、脱走してから、2年間も山中(廃坑跡)で生き延びました。2年間も北海道の山中で生き延びることができた理由は、火が確保できたから(北海道は寒い!)ですが、これはもちろん近隣の農家から種火を盗んだ。(さすが盗人!)そして食糧は、やはり畑から盗んだりしつつも、その大半は野生の植物をとって食べたそうです。しかし野菜ばかりでは、栄養失調にもなってしまう。(なりません!)では白鳥がどうやって魚などを捕ったか。こう証言しています。『熊が沢の岩をどうして魚や蟹を捕るのを見て、それを真似て、熊が遠ざかっていくのを確かめてから、魚や蟹を捕って、食糧のたしにしていたんだ。』」

こうして動物から学ぶこともあるわけですが、江戸時代に飢餓死した人たちもこういう生活(山菜や野生動物を食べる)はできなかったのか?調べてみました。以下のような記述がありました。

江戸時代の農民は勝手に自分の土地を離れることが出来なかったし、また海が近くても飢饉が起きると秋から翌年の春までつづく東北では、海が荒れて漁師でさえも食う魚に困りました。

天候不順による農作物不作が原因の飢饉の場合、山菜などの植物だって天候不順の影響を受けます。

もともと稲は熱帯性の植物です。ですから東北地方のような寒冷地での農作はもともと適していませんでした。しかも昔の稲は病気や害虫にもかなり弱かったということです。これが改善され東北がコメどころとなるのは、ササニシキやコシヒカリが開発され寒さにも病虫害にも強い品種が出てきてからです。ですから寒いか、そうでないかはかなり重要だったと思います。

九州でも薩摩(現在の鹿児島)のほうは桜島などの火山灰で、稲作には適していませんでしたが、甘藷(サツマイモ)の耕作が盛んで、これは救荒作物とされているものでもあり、気候の変動にも強いようです。(転載終わり)

確かに当時の飢饉は東北地方に多いです。寒いところでは植物が育ちにくいので、食糧難になりやすいでしょう。南太平洋の方で、飢餓の話は聞いたことがありません。何もしなくても、豊富に果物が採れます。南を目指すのも一つの手ですね。横井さんも北の地だったら、死んでいたかもしれません。しかし、熱いアフリカで餓死が多いのはどういうことでしょう。土地が荒れ果てているのか、栽培をしないのか、するのが面倒なのか、、、、?

私の田舎で聞いた話ですが、戦時中に食料に困った漁村の人が農村に食料を求めてきたことがあった時に、農村の人は野草を取っていくことさえ嫌って、追っ払ったそうです。飢餓に苦しむとお互いに優しくはなれないのかもしれません。

もし仮に全国民が食糧危機になり、自然の中に帰ったとしたら、自然の中にはどれほどの許容力があるのか。調べたものをまとめてみます。

2、人口扶養力

狩猟採集による人口扶養力は0.1人/㎢程度とされており,条件が良いところでは0.2人/㎢とされています。日本列島は海に囲まれているため豊富な魚介類の利用が可能でしたが、それでも0.1人/㎢を超えることはありませんでした。

つまり、一人が食べて行くのに必要な面積は5㎢〜10㎢です。つまり一人につき、広めの野球場の5〜10倍くらいの面積です。山ならピラミッド(世界一のギザ)1個弱くらい。かなり大きな面積が必要です。この数値から住める人口を計算すると以下です。

東京都    2200㎢ で    700人〜  1000人
北海道   84000㎢ で  28000人〜 42000人
日本全体 378000㎢ で 126000人〜189000人

推定ですが縄文時代の平均人口は15万人、縄文後期の推定人口26万人は縄文時代を通じて最大値ですから、これらの数値は妥当なところですが、想像以上に少ないのです。それを思うと稲作がいかに大事か、改めて思い知らされます。

3、車での生活

私は車に寝泊まりして旅をしているのですが、車の中には生活に必要なすべてのものがあるので、いざとなったらとても心強いです。移動できる家に住んでいるようなものです。常に車の中に必需品を載せておくか、あるいは押入れの一部に生活必需品を一まとめにしておいて、いざとなればそれを車に運び込めば、すぐに安全なところへ移動できます。飢餓ばかりでなく、今はどこで何が起きてもおかしく無い時代ですから、特に家庭を持つ人はこういう準備はしておいてもいいと思います。

こんなサバイバルな時代にはならないことを祈っていますが、いざとなった時にはこういう心がけでいれば、現実に起こった時には多少は余裕が持てます。

4、食べない生活

さらに、付け加えると、何もなくなったら「食べない」という選択肢もあると思います。私自身の断食の経験故ですが、数年前に一週間断食を二回体験しました。一週間は水だけで生きて行ける自信があります。多分、二週間か、もしかしたら1ヶ月くらいは持つかもしれません。その間に食料品を見つければいいわけです。あるいは残り少ない食料品を最低限必要な分を食べれば、長持ちします。しかし、何よりこの体験が貴重なのは、食べ物が無くなったら、餓死するという意識が無くなったことです。食べなくても、しばらくは普通に生活できますし、逆にエネルギーが無いと思って寝ていることの方が、体の具合が悪くなることもわかりました。やりすぎない程度の普通の生活をしている方が、ずっと快適なのです。4日目以降は空腹感を脱し、非常に感覚鋭くなりますし、そういう点でも非常に貴重な体験でした。

今の時代に飢饉は起こりにくいです。それは農業が進化してどこでもたくさんの量が取れるようになったからです。しかし、世界規模の大災害があれば、すべての国に食糧危機が来ますから、輸入は難しくなりますし、国家備蓄もいつか枯渇します。自給自足は当然のことになります。

国民一人一人もある程度の備蓄はしておいた方が無難でしょう。山間部は都市にいるより食べ物がありますし、栽培も可能なので、車で移動することを考えて、車に必需品を揃えておくといいでしょう。田舎に土地家屋を持つ、あるいは田舎の親戚縁者を大事にすることは大事なことです。そして、その時こそ、お渡しする(した)種が効力を発揮します。せっせと種を蒔きましょう。



posted by 種まく旅人 at 17:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月22日

6179番の恵さんより 栽培報告 稲刈り後

種蒔夫:「稲刈りが終わったら、稲作りは終わり」と思ったら、大間違い!それを教えてくれたのが、恵さんです。以下、恵さんからのメールと写真です。

種蒔夫さま

人生初のバケツ稲で、最高の出来、庭土バケツ稲君。

刈り取り後も、感心する程とっても美しい土面です。
それまでは庭土のことを、キレイと思ったことありませんでした。

収穫後のバケツ床について、言及しているサイトを見つけられず、
ふと、来年の出番まで、バケツ麦とか出来るのかなぁ?と、思いまして。

刈取り下手が幸いし、長く残っている根元を持って、持ち上げてみました!
DVC00027.jpg

対面は、驚きと涙(>_<。)でした。なぜ涙?かは自分でも説明出来ません。

こんなにも‥沢山の根が‥、ところ狭しと育っていた‥。
たった1本の苗が作った、壮大な地下都市・ネットワーク。

血管のようにも見え、稲も私も同じなのねと。。。

これは、裏作での麦は無理ね。

そして、なぜかムショウに、どうしても、土を落として、手元に置きたい‥という思いが。

そしてようやく、好都合な時間がやってきた!11月12日、快晴風強し。

外にある洗濯機での洗濯を隠れ蓑にして?、必死で稲の根の土落とし。
急いでいるのに、なかなかうまくいかない。

始めは、根元から持ち上げバケツとの隙間から水を入れた後に対流するようゆっくり回してみました。(イメージは洗濯機)

土が落ちるにつれ、水が濃い土水となり、それ以上は落とせない飽和な感じ。
その土水は、別のバケツに移動。
バケツの中に厚手のビニール袋を二重にセットして、その中で同様に再開。但し今度は、ビニール袋の外から、手で触れたり根の奥まで対流を届かせるなど出来る。気分は、袋の中で髪の毛の泥を洗い落とす感じでした。

再度繰り返し、やっとなんとか落とせたぁ\(^^)/。
寒い風の中、鼻水たらしながら、頑張った甲斐がありました。♪\(^.^)/♪
DVC00037.jpg

春、用意する時は、時間なく慌てていて、(掘り返した後に広げて一週間程陽ざしや空気風に当てはしましたが。)
ふるいもかけられず落ち着いて見ることも出来なかった。

土を落とながら、「なぜこの庭土バケツが一番出来が良かったのか。」少しわかった気がしました。

庭土は、粘土質と思っていたけれど、とても沢山の小さな砂利粒を含んでいたのです。根がしっかり抱えていて、離せないものもありした。
いただいた田土は、薄茶色粘土質で、見た目美しい細やかな粒子でしたが、なんだか呼吸出来なそうな苦しさ感じてました。

そう言えば、岩田の旦那さんが、砂利をまけと言うんだよ、と言っていたのを思い出しました。
砂利粒があることで、遊び空間も出来、呼吸も出来たり、根が伸びやかに成長出来たのでしょうか。

バケツ稲を見ていた成長期、庭土バケツは、度々、土の中から空気泡がぶくぶく出ているのを見かけました。何か生き物がいるのか?と思ったものでしたが、根が呼吸してたのですよね?

自然ってすごいですよね。
私の死後も、このハッピーヒルは育ち続け、遥か彼方、時空を超えて続いていくという壮大さを思うと、なんとも言えない気持ちになります。

6179恵

種蒔夫:私も初めて稲の根の張り具合を見たときには、隠されていた部分でこんな活動が繰り広げられていたことに本当に驚きました。逆に成長が悪い稲は根がとても貧相です。比較されるともっとわかったと思います。しかし、何故うまくいったのか観察力も立派ですね。感激度合いといい、観察力といい、恵さんは農業をするには案外向いてますね。
麦は庭先に蒔けば、土の状態にもよりますが、だいたい芽を出します。やってみてください。ただ、11月初めがよかったですけどね。
報告ありがとうございました。

posted by 種まく旅人 at 08:25| Comment(0) | みなさんからの栽培報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする