2018年05月23日

抗生物質が殺すもの

高橋徹さんの記事の時に、安倍首相も「潰瘍性大腸炎」であると書きましたが、首相は他人の糞便を移植したらしいです。何故なら、腸の中にはいろいろな有用な細菌もいて、人によっては必要な細菌がいなくなって、いい便を持っている人から糞便移動せざるを得ないらしいです。何故いなくなるのか?抗生物質が殺すらしいです。抗生物質はいい菌も悪い菌もドンドン殺しますが、それが他の病を生み、寿命までも短くする。先日歯医者に行ったら、炎症を抑える抗生物質が出されそうだったので「勝手に治るんでしょう?」と断りました。正解でしたね。抗生物質薬はほどほどに、必要最低限を。でも、食(肉類)にもあるんですよねえ、、、。

抗生物質と細菌の話。「環境活動家の田中優さんの文章を転載します。

□◆ 田中 優 より ◇■□

『 第六、第七の栄養素 』

▼新たな栄養素

 人間の摂取しなくちゃいけない「五大栄養素」というのがある。「たんぱく質、
脂質、炭水化物、無機質、ビタミン」の5種類だ。ではそれだけで大丈夫かとい
うとそうでもない。6番目に大事だとされたのが「食物繊維」だ。それがないと
腸内の微生物を健全な状態にしておくことができないからだ。
 
 そして今、第7の栄養素として注目されているのが抗酸化作用を持つ「フィト
ケミカル(ファイトケミカル)」だ。「フィト」は植物の意味で、植物の持つ化
学物質ということになる。番号だけで見ると簡単だが、ここに考えが至るまでに
は革命的な考え方の違いがある。それについて書かれた本が「あなたの体は9割
が細菌」という本だ。原題は「10%ヒューマン」になっている。 

 私たちが自分と感じているのは自分の体を組成する60兆個もの細胞だと思うだ
ろうが、それをはるかに上回る数の細菌たちの力によって生かされているのだ。
腸内だけでも100兆の微生物がいて、それがヒトの生存を支えている。

▼バイキンマンの時代

 20世紀までの最も大きな健康への脅威は感染症だった。麻疹や結核、梅毒やコ
レラ、赤痢、そうしたものに感染して命を落とすことが多かった。それらは革命
的な「抗生物質と予防接種」によって解決した。それ自体は素晴らしいことだ。

 ところが21世紀になると、今度は別なものに人々は苦しめられることとなった。
アトピーやアレルギー、自己免疫型の疾病、自閉症の多発などだ。これはどうし
たことなのか、幸福な暮らしへの扉が開いたはずではなかったのか。その理由を
細菌の役割にまでさかのぼっていったのがこの本だ。

 感染症の細菌に対して抗生物質が効いたのだが、抗生物質は他の細菌にも効い
てしまう。体内の細菌を皆殺しにしてしまうのだ。もちろん偶然抗生物質に触れ
なかった個体は生き残るが、腸内に棲んでいた細菌のほとんどが殺されてしまう。
するとその微生物が担っていた機能は失われる。その腸内細菌こそがアトピーや
アレルギー、自己免疫型の疾病、自閉症の多発などを起こさせない役割を担って
いたのではないかという考えにたどり着く。そして幾多の実験データにより、そ
れが実証されていく。

 ある死に至るほど深刻な消化器疾患の難病に対して、糞便移植を行ったところ
回復した。移植した健全な糞便が腸内に細菌のコロニーを作り、バランスが保た
れるようになったのだ。しかしただ治すだけでなく自立していくためには、腸内
細菌のバランスを保ち続けたなければならない。そのためには持続した細菌への
食物摂取の協力が必要になる。

 人類は必要に迫られて抗生物質を開発した。バイキンマンを退治するためだ。
しかし抗生物質はバイキンマン以外も皆殺ししてしまう。皆殺しされた細菌の中
にどうやら21世紀病とも言える自己免疫型の疾患を起こさせないための重要な細
菌類がいたようだ。それらがわずかなバイキンマンを退治するために失われたの
だ。今や過剰な抗生物質や殺菌・抗菌・滅菌グッズが売られていて、そのせいで
大切なバイキンマン以外の細菌まで巻き添えにされているのだ。抗生物質が生命
ある細菌にしか効かず、ウイルスには効果がないのに細菌による炎症予防にと投
与されるのだ。

▼21世紀病の対策

 単なる偶然だが、私は以前にリン・マルグレスの書いた「ミクロコスモス」を
読んでいた。そこでは「細胞内共生説」が書かれている。私たちの細胞内に複数
あるミトコンドリアが、外部にいた生物を細胞内に取り入れ、共生させたものだ
ったことが書かれている。それに比べれば、独立した細菌が有益だからと体内で
共生することぐらい簡単に理解できる。少なくともそれなりに自由に生きられて、
独立していられるのだから。

 その体内・体表面の共生細菌(常在菌)が、私たちの生命機能の一端を担って
いたとしても不思議ではない。その中の腸内細菌は、植物を摂り入れるために存
在していた。食物繊維を吸収できるように分解していた。ヒトは直接的に細菌を
皆殺しにしないように気を配り、腸内細菌に食物繊維を与え続けなければならな
い。食物繊維は細菌群を元気にすると共に、余分な有害物質を洗い流してくれる
のだ。

 今では糞便移植のための非営利組織があり、細菌を選んで人工糞便を作る研究
も続けられている。それは本人ではなく共生する細菌たちのバランスのためだ。
逆に言えば私たちは人間として単独で生きているわけではない。他の生物たちと
共存することで成り立っているのだ。その細菌たちのための努力が必要だった。
体内の細菌の多様性を下げてしまう毒物は摂らない方がいい。

 遺伝子組み換え作物は、撒いても枯れない遺伝子と、他の植物を枯らすための
除草剤がセットで使われる。除草剤は「グリホサート」という成分だが、アメリ
カの密集した環境で畜産をするための「抗生物質」としても認定されている。
ということは多くの場合、アメリカ産の肉類を食べると、そのグリホサートとい
う抗生物質も摂取することになる。それはあなたの体の中で、罪もない免疫を支
えていた細菌を皆殺しするのだ。

 もしかしたら第七の「フィトケミカル」もそれ以上の役割を担っているかもし
れない。植物を中心に食べていたとみられる人間が、外側にある「抗酸化効果物
質」を利用せずにいたとは思えないからだ。すると抗酸化物質の持つ力を、前提
にした免疫力になっているかもしれない。

 出産・授乳の時点で、母親は「必要な細菌のセット一式」を新生児へプレゼン
トしている。ところが世界では、必要もなしに「帝王切開と人工乳育児」を利用
する人たちも少なくない。しかし人間は無菌室で育つものではない。菌を毛嫌い
するあまり、必要不可欠な友人を失わない方がいい。

 私たちを形作っている90%を占める細菌と、友好条約を結んでいこう。そうす
れば私たちは21世紀病を克服し、いよいよ幸福な共存が可能になるかもしれない。
生物学的にも、私たちは孤立した存在ではないのだ。




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2018年04月30日

画期的な発明ー生ゴミやウンコをガスに!

2015年8月9日に京都舞鶴の村本さん一家(THE FAMILY)の記事で、家族の排泄物をガスに変える装置を紹介しました。

台所の天井のガスの袋
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コンロはビールの空き缶
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火がつきます!
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THE FAMILYの記事は以下
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/423857920.html

この話をすると、どこでも大変評判が良くて「我が家にも作りたい」という人も。何と、その簡単な装置がイスラエルで発明されました。村本家のものは地中に穴を掘るなど結構大変な作業がありますが、これは排泄物(犬猫のウンチも!)も生ゴミも入れられる上に、装置を組み立てて屋外に置くだけ。1kgの生ゴミで1時間強火で料理をするのに十分な量だとか。畑に撒く液肥もできます!日本にはまだ上陸していませんが、これなら仕組みがわかれば自分で作れそうです。


詳しくは以下
https://greenz.jp/2016/05/26/home_biogas/



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2018年04月28日

ノーベル賞受賞団体への提案

先日の日記とダブりますが、その頃(1月13日)に書いた日記(未掲載)があったので、そのまま転載します。

1月12日金曜日朝、長崎県とはなかなか縁がないなあと思って、自然食の店を検索して、 何と無く気にかかった店が大村市の「CAFE OLIVEA VEGG」。探し当てて、椅子に座って前を見ると、このチラシ。
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2011年、鎌仲さんの「ミツバチの羽音と地球の回転」を見て衝撃を受け、祝島をわざわざ訪ねました。ぜひ、会いたかった映画監督がやってくる!翌日午後3時半でした。トークイベントならば、人も集まるので、種も蒔けます。一石二鳥。

1月12日の午後は暇だったので、本を探すことにしました。旅の間は通販が不可能なので、本屋に行かざるを得ません。手当たり次第に本屋に電話して探しました。書名は「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」(鴻上 尚史著)

何故、特攻隊に興味があるかと言えば、親族の一人が当時海軍で特攻隊拒否派だったこと。現在乗っている車を買った店のおじいさん(創業者)が元零戦の整備員で、何人もの特攻隊員を助けた(特攻隊員の一部は特攻前夜にやって来て「離陸してすぐに不時着するようにしてくれ」と頼まれ)興味深い話をうかがっていたこと。特攻隊って、何だったのか?特攻隊を考え出し実行させた側、そして実行した側ー全て一つの典型的な日本人の姿だと思います。ここから日本人の姿が見えてくるのではと以前から思っていました。しかも、この本のカバーに「9回出撃、9回生還!」一体どういうこと?
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売り切れ店ばかりでしたが、10件近い本屋に電話してやっと見つけた本屋が長崎市の近く。30キロ以上走って、その日の午後には手に入れ、ジョイフルで読み始めました。本来なら入らないレストランですが、暖房があって安く、かつ本屋の隣がジョイフルでした。

夢中で読んで数時間後、周りを見ても誰もいません。そのせいか、暖房OFF !この激寒の中、暖房を切るなんて、なんと非情なファミレス!それでも頑張って読んだのが災いしたのか、風邪を引いてしまいました。

この夜、コンビニで車を止めて車中泊したら、風邪は本格的になりましたが、せっかく長崎市内にきたので原爆関係の場所を訪問することにしました。
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そして、原爆資料館で見つけたのが、このチラシ。
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核兵器禁止条約を成立させたICANがノーベル賞を受賞しましたが、その団体の事務局長が来るようです。核兵器!それはブログ日記「ストックホルム・アピール」「クリック一つで平和な世界に」に関わります。これは宿命だなあ。参加しようか!
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しかし、このセミナーが13時半から16時半まで。鎌仲さんのトークイベントが15時半から。大村市まで帰るのに、1時間強だから、14時半には出ないと間に合いません。どちらを優先しようか、、、、。

そこで、トークイベントのある「CAFE OLIVEA VEGG」に電話しました。すると、鎌仲さんはCAFEでのトークが終わった後に、プラザおおむらでの映画上映会「ほたるの川のまもりびと」でもトークをすると聞いて、そこへ行くことにしました。18時半開場なので間に合います。
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そうこうするうちに、ノーベル賞を取った団体「I CAN」の事務局長ベアトリス・フィンさんがやって来ました。とても大柄な女性。マスコミの人がぞろぞろついて行きます。
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私も一緒に見て回ることにしました。それで見つけたのがこれです。
長崎に落とす前々日にも米軍はやって来て上空から写真を撮っていました。
何故、彼らを撃墜できなかったのか?私の最近知った情報では、B29は上空1万m。零戦等戦闘機はせいぜい5千mくらいしか行けなかったのです。
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これは硯(すずり)です。こういうものも熱で柔らかくなるんですね。
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これは核保有国の核保有数
米露が約7000ずつ持っており、両国で92%保有。
中国なんて、可愛いもので270発。と言っても一回使えば、米露の13800発が吠えるでしょうけど!
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意味の有りそうな荘厳な場所
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そこで署名
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この署名の前ページには「種蒔夫」の文字があります。暇つぶしに署名したら、守衛さんが飛んでやって来て「あんたが書いちゃいかん」と叱られました。しかし、もう消せないのです!僕も長崎原爆資料館の来賓の一人になってしまいました。
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いよいよセミナーが始まりました。
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基調講演の後、私が最初に発言しました。ストックホルムアピールの話とクリックの話。詳しくは以下
ストックホルムアピール  http://happyhillcontest.seesaa.net/article/452808127.html
クリック一つで平和な世界に  http://happyhillcontest.seesaa.net/article/454308939.html

それに対してベアトリス フィンさんが答えました。「I CAN」ではクリックで核反対の意思表示を集める考えは無さそうでした。日本語訳がよくわからなかったので、休憩時間にベアトリスさんと前日夕食を共にしたという接待側の日本人男性に訊いてみました。彼も同様の問いかけをしたらしいです。

乗り気でない理由はネット上では一人で何人分ものクリックが可能なこと。中国政府などはネットを牛耳っているので、全国民のクリックを国家がやってしまうだろうこと。そして、意外なことに、「ICAN」はたったの3人で運営しており、それをするだけの余力がないこと。

ノーベル賞を取ったほどですから、さぞかし大きな団体と思ったらとても小規模な団体でした。ただし、それに賛同する団体は世界中に数多くいることがこの団体の強みでしょう。しかし、3人では何から何までやることは不可能です。

これらの理由を聞いてなるほどと思いました。まずネットに精通している最高度のハッカーの存在が必要だということ。それをするためだけの組織を作ること。

この壇上の四人の中の右側の人は政府の人です。外務省軍縮不拡散・科学部軍備管理軍縮課長 今西靖治氏。観客席からいろいろな問いかけがありましたが、この政府の役人に質問が集中しました。厳しい質問の数々でしたが、話題にならなかったことで重大なことがあります。
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日米合同委員会の存在です。日本のエリート官僚と在日米軍の高級軍人からなる隔週木曜日の密室での委員会。日本の国内法(憲法体系)を侵食し、日本の主権を侵害し、日本における米軍の特権を維持するためのリモコン装置である合同委員会の存在です。日本国が核兵器禁止条約に署名しないのはこの合同委員会での取り決め、あるいは命令ではないかと思います。

この市民と役人とのやり取りについてベアトリスさんはとても評価していました。つまり、国民と政府がもっと話し合うべきだと。しかし、こういう機会がどれほどあるでしょうか。ノーベル賞受賞者が来たから、役人も仕方なく来たでしょうし、市民もベアトリスさんがノーベル賞授賞者でなければ満席にはならなかったでしょう。

ノーベル賞受賞者が来たことで、会場は興奮状態!種蒔きする状況ではなかったので、種は数人しか蒔けませんでした。無論、ベアトリスさんにも蒔きました。



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2018年04月19日

核心

2016年7月16日のブログ日記「現実を知らない日本人」に以下のように書きました。

http://happyhillcontest.seesaa.net/article/440104316.html
ところでそのイラク戦争での自衛隊のことですが、彼らは35人も戦死しています。先日バングラデッシュで日本人が7人殺されて、遺体が日本に運ばれ仰々しく空港内に安置され、政府関係者が献花、黙祷しました。このように目立った死に方をすれば、国を挙げて手厚く葬るのでしょうが、35人の戦死者のことは日本人の99%は知らないのではないでしょうか。他の国ならば、どういう死に方であれ、戦死者は大きく報道されます。

元自衛隊員から聞いた話ですが、安全地帯と言われたサマワ地区は相当に激しい攻撃を受けたそうです。ほとんど武器を持たない自衛隊はまともな応戦も出来ず、オランダ軍が救援に行ったそうです。実際に攻撃で死んだ人はどれくらいか分かりませんが、数名の事故死とか不明死がそれに当たるのかもしれません。しかし、驚くべきことは自殺者が16名もいることです。私の想像では実戦経験のない隊員が恐怖から自ら命を落としたと思います。帰国後の自殺者も多いです。こういう事実を知れば、日本人の意識も変わるし、考えもするし、選挙にも影響します。(転載終わり)

ウィキペディアの「イラク戦争」にも以下のように記載されています。

イラク特措法に基づき派遣された隊員のうち在職中に死亡した自衛隊員数(2007年10月末現在)
• 陸上自衛隊 14人(うち自殺7人、病死1人、死因が事故又は不明6人)
• 海上自衛隊 20人(うち自殺8人、病死6人、死因が事故又は不明6人)
• 航空自衛隊 1人(うち自殺1人)
   2007年11月13日防衛省発表
イラク派遣の自衛隊の負傷者は21名。

2014年4月16日現在の自衛隊イラク派遣後の自殺者合計が28名と放送される。内訳は陸自20名、空自8名。(転載終わり)
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「イラク戦争で自衛隊員が死んだ」あるいは「自衛隊員はイラクで戦争をした」という事実は、日本人はほとんどが知らないのではないでしょうか。しかし、今だにそれを大きく報道するマスコミはありません。

今、「イラク日報」の存在がとりざたされています。「あった」「なかった」が問題になっていますが、「戦争の記録」がないわけはないのです。それは今後の戦争にも十分に重要な資料になりうるからです。科学者が過去の実験記録を破棄しないのと同様です。問題は「何故、なかったことにしたのか?」という点です。

「国民に読ませたくない内容がある」からです。それがイラク戦争35人戦死の詳細です。それが今回公表された「イラク日報」435日分の中に含まれていると期待しましたが、その部分だけ抜け落ちているようです。結局核心部分は隠したままなのです。

それがわかったのは今朝の「日刊ゲンダイ」の記事です。以下部分転載します。

「16日、防衛省が公表した陸上自衛隊のイラク派遣の日報。435日分、計1万4929ページに及ぶ膨大な資料で、早速、「戦闘拡大」の記述を巡って議論されているが、ごまかされてはいけない。公開されたのは、派遣期間全体のわずか45%に過ぎない上、宿営地の被弾など、陸自が最も危険にさらされた時期の日報は、ゴッソリ抜け落ちているのだ。そこには、核心が書かれている可能性が高い。」

詳細は以下

防衛省また隠蔽か イラク日報「被弾の日」抜け落ちの欺瞞
日刊ゲンダイDIGITAL / 2018年4月18日 15時0分

小野寺防衛大臣(C)共同通信社
 一体、何を隠そうとしているのか――。

 16日、防衛省が公表した陸上自衛隊のイラク派遣の日報。435日分、計1万4929ページに及ぶ膨大な資料で、早速、「戦闘拡大」の記述を巡って議論されているが、ごまかされてはいけない。公開されたのは、派遣期間全体のわずか45%に過ぎない上、宿営地の被弾など、陸自が最も危険にさらされた時期の日報は、ゴッソリ抜け落ちているのだ。そこには、核心が書かれている可能性が高い。

 陸自は2004年1月から06年7月にかけてイラクに派遣され、04年4月から05年1月に計9回、宿営地に迫撃砲弾・ロケット弾の着弾を受けている。ところが、防衛省が公開した日報は、肝心の被弾した9日分がすべて抜け落ちているのだ。

 自衛隊が危険にさらされた日の日報こそ、国民が最も知りたい情報が詰まっているはずだ。不存在の理由を防衛省に聞くと「現地においては、日々作成され、用済み後、破棄されていたものもあります」(大臣官房広報課・報道室)と答えた。

■「破棄」はあり得ない

 しかし、日報を破棄するなど絶対にあり得ないことだ。軍事評論家の前田哲男氏は首をかしげる。

「ルール上、破棄してよいことになっていても、日報が残っていないとは考えられません。現地の日報は、軍事の基礎になる資料です。起こったことを記録、保存し、教訓にして、未来につなげていくものだからです。現時点で、被弾した日の日報が提出されていないのは、機微な情報が多く、公開方法を慎重に検討しているのだと思います。もし、『ない』と結論付けるなら、それは隠蔽の可能性があります」

 防衛省は、20日までに「日報類」の探索作業を徹底して行うよう、全部署に通達している。

「日報破棄はあり得ない」が軍事の常識。さっさと出したらどうだ。(転載終わり)

問題の核心は「イラク日報」の有無ではなく、「自衛隊員が派遣(派兵)されたサマワ地区では戦闘があった事実。自衛隊員35人死亡の原因の詳細」なのです。それが明らかになれば、日本人の自衛隊、防衛省、戦争、アメリカ、世界に対する認識は大きく変わるでしょう。すでに世界の戦争に巻き込まれている日本人を意識せざるを得ません。そこで、日本人は何を考え、どう行動するのか。そのための材料さえも、提示されない現実で、思考しない日本人はさらに平和ボケになったままなのです。日本人を多少でも目覚めさせる材料になるはずですが、それを追求しないマスコミの罪深さがあるのです。かろうじて、日刊ゲンダイが取り上げているのは救いではありますが、果たして今後マスコミは「抜け落ちている日報」を追求するでしょうか。また、明らかになるでしょうか。






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2018年04月13日

見習ってほしい大谷の、、、

投球や投法ではありません。大谷の日本人として当たり前の行為。ベンチを汚さないことを。

以前からアメリカのベースボールを興味深く見ていますが、気になることが一つ。休憩中の選手がベンチで唾を吐く、紙コップは投げ捨てる、そしてひまわりの種を吐き散らす行為。ベースボールは面白いですが、この行為には失望しました。

試合後の日米野球のベンチ比較
日本
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アメリカ
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大谷に関する情報は以下です。
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【アリゾナ州サプライズ18日(日本時間19日)発】これまで試合中、ベンチに置いてあるガム、キャンディーなどの趣向品には一切手を出そうとしてこなかったエンゼルス・大谷翔平投手(23)がついに“禁断のひまわり”に手を出した。

 この日はレンジャーズ戦に7番・DHで出場。若干詰まったとはいえ、久々に痛烈な当たり(結果は投直)を打った第2打席後、ベンチで主砲・トラウトらにハイタッチで迎えられた大谷は、よほど気分が良かったのかこれまで見向きもしなかったひまわりの種を手に取り袋を破くと一塊を手に取って口にパクッ。器用に前歯で殻を割り中の実を食べては行儀よく、残った殻をベンチの床ではなく紙コップの中に吐き出していた。(転載終わり)

大谷はホームランを打つばかりではない、三振を取るばかりではない、ゴミも捨てない!でも、これだけは日本人だからです。アメリカ人には到底真似ができません。


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2018年04月11日

2018年

1月1日

あけまして、おめでとう!
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1月2日。鳥取への道中で今中さん宅へ。もう4、5回は訪ねています。話題は宇宙、食品、歴史、農業、生死など多義に渡る濃い会話。
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差し上げた種から万倍になった小麦で美味しいピザが出来ました。感無量!
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離れの部屋にはお米を膨らませる穀類膨張機が置いてありました。
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玄米を膨張させるとこうなります。栄養満点!
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翌日は雪が積もっていました。
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早速雪かき
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鳥取に向かって出発したもの、途中で雪にはまってしまい、何とか抜け出して再び今中家へ。翌日、遠回りして鳥取に向かいました。
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2018年04月03日

一円と一粒

2018年03月24日の「9粒から田んぼ一枚分に」の記事に以下のように書きました。

「種はたった一粒からでも万人に食べさせるほど増やせるという典型的な例だと思います。こういう体験そのものが大きな意味を持つものだと思います。1粒から翌年には数千粒、タネによっては数万粒にもなりますが、1円から初めて翌年に数千円、数万円になりますかねえ、、何か良い方法がありますか?それができればみんな金持ちですが、種を増やすのは要領を飲み込めば、誰でも可能ですからね。みんなが平等になれるのも、金より種ですね!」

そう書いてから、ずっと考えていました。1円を2円にする方法について。種なら万倍さえ簡単なのに、どうしてお金は1円から増やせないのか?
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お金の世界に詳しい人にも聞いてみました。慶応大学経済学部ー野村證券ー独立して介護施設設立という経過を経た人は

「1万とか2万あればねえ、、、」という答え。

170年の歴史を誇る料亭の元女将に聞いてみました。
「銀行から金を借りればねえ、、」

つまり、ある程度まとまった金があれば、増やせるという答えでした。これは誰でもわかることです。しかし、私がこだわるのはあくまで1円からです。

しかし、どうあがいても1円からでは増やせないのです。1円のものがどこかに売っていれば、購入後にそれに価値をつけたり、あるいは同じものが1円以上の価値に思っている人に売れば儲けが出ます。しかし、今の世の中に1円のものがありません。

そこで、考えてみました。流行らない骨董屋に行って尋ねます「捨てるものがあれば、一円玉と交換してください」ゴミに出す費用を考えれば、貰ってもらえば助かりますから、多分何軒か当たれば、タダ同然でくれるでしょう。一円を差し上げようとしても、少額すぎて受け取らないでしょう。

あるいは、まだ使える家庭電化製品をゴミ出し日に拾って売れば、儲かります。さらに、山の中に入って山菜を採って売れば、儲かります。

とすると、1円はもはやどうでもいいです。売る側のアイデアと行動力さえあれば、無料のものを手に入れて売ってしまえば、入ってくるお金は丸ごと儲けになります。

1円にこだわっていたのが、問題だったのです。つまりこの世の中はタダのもので溢れかえっているとも言えるかもしれません。

種は種を生み出しますが、金は金を生み出すわけではなく、金を増やすには、人間が介入して増やすアイデアを出して、あるいはそのアイデアを真似して増やすしかないのです。さすが人間が生み出したお金は人間が創造していかないと子孫(?)を増やせないのです。(笑)

しかし、大部分の人はアイデアを真似して売っています。様々なモノを売る行為は長く続いて、今も同様です。しかし、それも元をたどれば、モノを売って金を増やすことを考えた人がもしかしたら同時多発的にあちこちに発生したのでしょう。

そして、モノを加工して売ることを考え出した人も出現したでしょう。最近はこの仕事が大部分かもしれません。しかし、加工する仕事はこれから徐々にロボットがやるようになるでしょう。しかし、モノ自体、つまり採掘したり、栽培したり、採取したりも、だんだんとロボットに仕事を奪われるでしょう。

そうすると、生き残るには新たな仕事を創造するというもっと根本的なものを探るしか無くなるのです。創造する仕事だけが残ると最近よく言われていますが、なるほどそうなんだなあと思います。しかし、みんなが創造的になれるでしょうか。創造者は増える傾向が出てくるでしょうが、全員は無理でしょう。それにそこまで増えても需要がないかもしれません。70億人が創造して、どうなるでしょうか。なったらなったですごく面白そうでもありますが、現実的には不可能でしょう。

これから先、自ら金を生み出す人は極小数の創造者だけになり、その人たちが莫大に儲けるお金をベーシックインカム(生活保護費みたいなもの)によってもらう人が増えるでしょう。それで日々何もしないで生きていく。あるいは、ある専門家(ロボットの未来を考えるとかの)が言ってましたが、貰ったお金でゲームに興じればいいのだと。何という未来でしょうか。バカバカしくてついていけません。

仮にそういう世界になった時に、人間が人間らしく行きていく方法はあるでしょうか?

もし、まだ若い世代で時間の余裕がある人間ならば、まず働いてまとまった金を作って、数百万貯める。贅沢しなければ、月に10万くらい貯めるとすれば、2、3年で200万〜300万くらい。その金で水が出る山か土地を、あるいはその一部を買う。そこで自給自足する。それがこれから最も贅沢な(金銭的贅沢ではなく、人間的贅沢)生き方じゃないかと思います。都会しか知らない人は山の中での暮らしを寂しいと感じるかもしれませんが、自然界から離れすぎて人間社会しか知らない人、すでにロボット化している自分自身の姿に気づかない人には到底理解できないでしょう。

自給自足生活の中で、もし金が必要になれば、そこから採取される動植物、あるいはその加工品で金になるものを探り出して売る。これら全てをゲーム感覚で行う。彼女や奥さんが欲しい人は、人生をゲームだと思える人なら一緒に生活もできるでしょう。当然子供もそうなります。しかし、すでにそうして生きている人たちを今回の旅で、あちこちで見かけました。色々苦労もあるでしょうけど、どの家族も本当に幸せそうでした。

話が飛びましたが、要は種1粒は生物なので、自然に増えて行きますが、1円は無生物なので、そのもの自体では増えることはなく、人間の知恵がいるという結論です。

旅をしていて時々思いました。これが種でなく金だったら、反応が違うだろうと。今回の旅では200万〜300万の金を使いましたから、一人当たり最低でも200円を使っています。しかし、一粒と200円、どちらかを貰えるとすれば、大部分(栽培や植物に関心のない人)ならばは200円を取るでしょう。しかし、一時的には儲けた気持ちになりますが、そこから生まれる想像世界は雲泥の差があると思います。

200円を貰って想像する世界は、美味しい飲料水とかお菓子を想像して終わりです。しかし、種はどうでしょうか。人によりますが、200円で買える世界とは別格のものがあります。自然界を思い浮かべるでしょう。土や花や葉や、川や畑や田んぼや、、、緑の世界が頭の中で展開するでしょう。もし、栽培経験がある人ならば、さらに深く広がった世界が展開するかもしれません。

最後に金と種の違いについて、思いつくまま列挙してみました。

金は1円から増やすことができない。
種は一粒から千倍、万倍に増やせる。

金は無生物である
種は生物である

金は食べられない
種は食べられる

金は人間にしか通用しない
種は人間以外の生物に影響する

金の存在は人間を狂わせることもある
種の存在は何も狂わせない

金を貰えば、誰でも喜ぶ
種を貰っても、その価値がわからない人が多い

金がこの世からなくなれば、自然界は変わらないが、一部の人間は狂い死ぬ
種がこの世からなくなれば、自然界は不毛になり、人間は絶滅する

金が有り余れば、金の価値は無くなる
種が有り余っても、種の価値は変わらない

金は人間が生み出すものである
種は自然界が生み出すものである

金を捨てても自然界に変わりはない
種は捨てる場所によっては、増え続ける

1円をもらっても誰も喜ばない
1粒をもらって狂喜乱舞する人がいる

大げさですか?
笑ごとですまない日が来るかも!です。


posted by 種まく旅人 at 11:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月06日

一匹の魚

これ、何かわかりますか?
2.jpg

煮干しの大群を大画面(2m×2m)に貼り付けたものです。1990年頃に制作した、私自身の作品です。画面はキラキラと輝いて綺麗ですが、作品の意味合いは深刻な私自身の体験から来ています。

1980年代、赴任した中学校で行われた「内申書操作」(詳細はカテゴリー「教育」の中にあります。)を内部告発して辞職し、フランスに渡りました。「内申書操作」という犯罪は学校の問題というより、日本独特の閉鎖性と和の精神(悪い意味において、何も破壊できない精神)ゆえに起こる組織内の思考停止状態、長いものに巻かれる状態であり、どこでも起こりうることだという思いから、日本を、日本人を嫌悪して日本からの脱出だったわけです。

渡仏後、フランスの自由な空気の中で私の具象的絵画は豹変して、様々な手法や材料を使うようになり、日本から送られて来た煮干しまで使ったわけです。

全てが同じ方向を向いて泳いでいます。これが日本人の姿を表すのですが、一匹だけ逆に泳いでいます。(探さないで!小さ過ぎて探すのは無理です。笑)全員に抗う反抗的一匹!幸い、今回の旅でその一匹の魚たちにたくさん出会いました。この大画面の一匹の魚のように、総数からすればほとんど目に見えない存在ですが、それぞれが黙々と生きている姿に救われる思いでした。

ところで、今日これをあえて取り上げたのは、昨夜ネット上で トークセッション「愚民社会」大塚英志×宮台真司 のビデオを見ていたら、大塚が

「柳田國男って普通選挙の導入に必死になって、昭和の初頭に普通選挙が行われた後で、『日本人なんて所詮、魚の群れじゃねぇか』と。なんも考えないで、皆のあとを付いていって、しかも中心的人物がいないよね。魚の群れってリーダーがいるわけじゃないですから、『皆で一つの方向に泳いでいくだけじゃないか』っていうふうに憤って。・・・」

と話していました。

「あ、あれと同じだ」と思ったわけです。このトークセッションは日本人を考えるのにとても興味深いです。ぜひ、ご覧ください。1時間48分。



以下、対談全文です。

(明治以降、日本にもたらされた「近代」という概念。思想だけはなく、法律、建築、教育などのあらゆる分野にその影響が及んだ。さらに戦前は、近代を乗り越えようとする動きまでが起こった。戦後、民主主義が導入され、"真の近代化"を果たした日本人は、自分で考える力を持った「近代的個人」になったはずだった――。)

■「愚民」とは何か

司会者: ニコニコ生放送をご覧の皆さま、こんばんは。これよりニコ生トークセッション「愚民社会」をお送りします。本日は過激な社会学者・宮台真司さんと実践的評論家の大塚英志さんにお越しいただいております。東日本大震災を経て、より明確になった日本の問題点を60分に渡ってじっくりお話していただきたいと思います。この番組では、皆さまからのご質問を受け付けています。宮台さんや大塚さんに聞きたいことがある方は、プレイヤー画面下のメールフォームより、どしどしお寄せ下さい。ハッシュタグは「#nicoron」をお使い下さい。それではさっそくお話をうかがっていきたいと思いますが、まずはお2人の対談集のご紹介を編集者の藤岡さんからお願いいたします。

藤岡氏(以下、藤岡): こんばんは。太田出版編集部の藤岡と申します。このたび2011年11月に『愚民社会』という本を太田出版から出させていただきました。近代への努力を怠ってきたツケが今この社会を襲っているということで、社会学者の宮台真司さんと評論家の大塚英志さんの対談集になっております。さっそく、ここで一つ目のアンケートをお願いしたいのですが、皆さん『愚民社会』を読んでいただいてますでしょうか?お待ちしております。(結果を見て)「読んでいない」・・・。なるほど。すごく読んでないですね(笑)。はい。91%の方が「読んでいない」でしたね。これはまぁ、この皆さん買ってくださったらまぁいいということなので・・・。はい、この機会に読んでいただければと思っております。はぁ・・・。頑張ります。ちょっと宣伝とかですよね。宣伝とか頑張ります。はい。

 では、さっそく本題に入っていきたいんですけど、実はこの『愚民社会』というタイトルは編集部が付けたものでして、本の中では大塚さんは「土人」という言葉を使っていらっしゃって、宮台さんは「田吾作」という言葉を使っていらっしゃったんですけれども、そこの2つを統合することが1つと、いきなり「土人」という言葉が、なんのエクスキューズもなしに世の中に出回るというのは、ちょっと恐ろしいなということがあったので、編集部の方で勝手に「愚民」と付けさせていただいたという次第です。なので、この頭のところで大塚さんと宮台さんそれぞれに「愚民社会とは何なのか」というところを改めて定義と言うか、ご説明していただけたらと思っております。では、宮台さんの方からお願いします。

■「日本は民主主義社会ではない」

日本は「新興国と競争するバカな選択に拘泥している」

宮台真司氏(以下、宮台): えっと、僕はよく「田吾作」という言葉を使ったり、あの「民度が低い」って言葉を使ってきましたよね。その意味は分かりやすく言えば、日本は民主主義社会を営んでいるようでいながら、実際には民主主義社会ではないし、資本主義社会を営んでいるようでいながら、いわゆる資本主義かどうかも非常に怪しいわけですよね。

 それはどういうことかと言うと、いわゆる資本主義社会と言う場合に想定されている"資本主義的な合理性"が必ずしも貫徹しない。それは今、日本がどんどん経済的に沈下していく理由とも非常に関係があって、基本的にはよく社会学者だったら「共同体的な縛り」というふうに言ったりしますけど。残念ながらその新興国と競争するバカな選択にまだかなり拘泥しているんですよね。新興国が入ってこないような市場を開拓して、そこで競争する。そうしないと企業が残っても人々が貧しくなるという利潤率均等化の法則というふうに言いますけど、そういったことを全く理解しない人たちが多いので、未だに経済団体の中心部には既得権益産業が座っている状態ですよね。そういうことが一方にあったりとか。

 あるいは政治についてはもう言うまでもないんですけれどもね。沖縄の問題をとっても、尖閣の問題をとっても、日米関係・日中関係すべての問題をとっても、呆れ返るような非合理性、戦略の無さ、あるいは「木を見て森を見ず」。外交や政治の基本は、「損して得とれ」っていうことだとすると、こういう戦略の基本はまったく存在していない。日本だけじゃなくて、多くの先進国が今グローバル化の下で民主主義とグローバル化の両立する可能性の問題に悩んでいるわけだけれども、日本は悩むどころか、かなり早い段階でもう敗北をしているということですよね。

 その理由は残念ながら、僕の言葉で言えば、未だに任せてブーたれるだけの「愚民」だらけということですよね。引き受けて考えることをしない。その意味で、社会学で言ういわゆる個人性がほとんど存在しないと言ってもいいかもしれません。同じような意味で今度は任される側が、知識や合理性を尊重するコミュニケーションをせずに、ひたすら空気に縛られるコミュニケーションをする。こうした時点でもう・・・。昔、江戸時代とか、それ以前の時代だったらば農民が、そのほかの人々もそれで良かったのかもしれませんけども、日本の場合、残念なことに政治家を含めて、そうした状況になっているということ。これが問題だということでしょうね。

 アジアを含めて、日本以外の国々の多くは、別に皆が、キリスト教あるいはユダヤ・キリスト教文化圏のような個人性を獲得しているわけではないし、自己決定性を獲得しているわけでもないわけですよね。血縁の縛りが強かったりとか、独裁国家だったりとかするわけですけども。その場合でも今度はその近代の資本主義的、あるいは合理主義的な原則を知らない人間たちが大勢いるとしても、その人間たちをインターフェイス役、あるいはメディエーター役、あるいはリーダー役、別として、近代資本主義の中で生き残らせるような、括弧付きかもしれませんけれども、エリートが存在したとすると。日本にそれがいないんですよね。

 そのことが要するに、日本人だけではなくて、諸外国の人たちにも急速に分かってきているということですよね。だから、経済の大きさ云々かんぬんということはそれはそれとして、残念ながら日本は民全体もさることながら、それを導いたり、簡単に言えば、それが有害な働きをしないように機能する存在が企業経営者とか政治的なリーダー含めて、非常に少ないということですよね。だからそれは「1億・総田吾作状態」ということをもって「民度が低い」と言っていたわけでございますね。

■近代をやり損なった"日本"

「『土人なんだな』という言葉がふっと頭に浮かんだ」

大塚英志氏(以下、大塚): はい。宮台さんと何度か話す機会があって、一貫して宮台さんはそういうふうに仰っていたわけだよね。以前だったらば「まぁまぁ宮台さん。それはもう身も蓋もないですから、もう少し日本人の可能性というか、民度みたいなものに期待はしていきましょう」というふうに諌めてきたわけですよね。「まぁまぁまぁ」と。ただもう前回の対談で、もうなんかすっかり嫌になっちゃってて、もうなんか「田吾作」だったら優しすぎると。「土人じゃないか」といきなりプチンと放言して、そのまま止まらなくなったような気がするんですよね。

 宮台さんが仰ったようなものとは、また違う視点なのかもしれないけど「この国は、結局近代をずっとやり損ねてきたんだよ」っていうのが、ずっとこの10年くらい僕が小声で言ってきたことなわけです。その「近代を損ねる」っていうのはつまり、すごく評判が悪い民主主義システムみたいなものを、最低限機能させていかなかったら、やってけないのと違うのかと。その前提となっていくような人の在り方みたいなことは、まだ創っていけるのではないのかというふうに、多少の希望と責任みたいなことを思っていたんだけれども。

 去年の(東日本大)地震を見たあとくらいから、なんだかすっかり「ああ、土人なんだな」という言葉がふっと頭に浮かんだわけです。「土人」という言葉の中にいろんな意味を込めたんだけれども。だいたいは僕ってもともと左翼ですから、「土人」なんて差別用語は使わない方の人なんですけれども。なんかもう、ふと使ったら面白くなっちゃって、使ってるんですけれども。今日も不穏当だな。

 えっと、どうせ顰蹙(ひんしゅく)買うんだから言うけれども、本の中でも喋ったけども、3.11の後、例えば寄付合戦が始まったでしょう。あれを見てポトラッチとかねカーゴ・カルトとかを思い出したんですよ。僕もともと民俗学ですから、ナマズ絵っていうのが安政の地震のあとにたくさん出てきて、その中でもね、お金持ちが寄付しろみたいにナマズ絵をいっぱい売ってるわけですよ。まるでなんか江戸時代に返って、ポトラッチっていうのはそれ以前の前近代社会かなにかの、要するに蕩尽合戦みたいな無駄遣い合戦ですよね。なんかそんなことが始まったように思えたりして、どこかで「あ、日本人の中にもう少し近代っていうのがあるな」って思ってたらば、それが意外と脆くて、その下にあるのがヒョロッと出てきちゃったのかなって思うと、なんだかすごく脱力しちゃって。

 そう言えば、柳田國男って普通選挙の導入に必死になって、昭和の初頭に普通選挙が行われた後で、「日本人なんて所詮、魚の群れじゃねぇか」と。なんも考えないで、皆のあとを付いていって、しかも中心的人物がいないよね。魚の群れってリーダーがいるわけじゃないですから、「皆で一つの方向に泳いでいくだけじゃないか」っていうふうに憤って。それでも柳田はまだ、選挙システムや民主主義っていうものが日本に可能じゃないのか、可能になっていくような枠組みみたいなものを作るべきなんじゃないかと言っていて。そういう柳田を僕は未だに好きだけれども。その時の柳田國男の「魚の群れじゃないか」って言った感覚が、すごくしっくりきて、多分あの時ずっと、「土人、土人、土人」、と言っていたわけですよね。

 責任転嫁しますけども、「土人」て最初に言ったのは浅田彰ですね。昭和天皇が崩御した時に、皇居の前に集まった日本人の姿を見て、彼はそういうふうに言ったわけですね。で、その時は僕はさすがに「浅田さん言いすぎじゃないか」と思ったんですけどね。なんか、その言葉を自分の方が繰り返しているのも不思議なんだけれども。土人と言ってみてしっくりきたみたいな。やっぱ近代という枠組みの中で、僕がなんとなく期待していたものが、やっぱり不成立だったんだなっていうのを実感した言うか。「ああ、こういうものなんだな」って。あと、「皆これでいいと思ってるんだったら、もういいじゃんそれで」みたいな気がしてきてね。「好きにすれば」っていうね。

■3.11以降、「終わりなき日常」は終わったのか

大塚「(震災後も)ハレとケとケガレを繰り返してるだけ」

宮台: 僕は「"終わりなき日常"は終わった」という議論が(作家の)猪瀬直樹さんとかから出てきた時に「もうだめだ」と思ったんですね、はっきり言って。『読書人』のインタビューの時に、僕は爆笑したんです。総力戦研究所のシミュレーションの話とかしているあの猪瀬さんが、戦後と戦前の継続性について知らないはずはないわけですよね。

 例えば日本には「ロジスティクス」という概念は存在しないので、レイテ島戦では90%以上が餓死している。インパール作戦でも同様ですよね。実は誰もが武器弾薬どころか水も食糧も補給もないところで戦えば作戦失敗することは知っているわけで。陸軍参謀本部の連中だって分かっているわけですけれども、極東国際軍事裁判等でそういうことは問われると、「自分には権限はなかった」とか、「今さら止められないと思った」とか、「空気に抗えなかった」とかって話になるんですよね。

 これは「原発・原子力村」と人々が呼んでいるものの動きとまったく同じものであり、そこにはまったくその継続性しか存在しない。やはり敗戦のようなことがあると、これから新しい時代が始まったという議論が出てきたりとか。なにか震災があると大挙して、ポトラッチあるいは寄付、あるいはボランティア的なことが起こるということも繰り返し繰り返し今まで起こってきているのであって。この福島の原発を引き起こした震災程度のことで、「終わりなき日常が終わる」ということが、まずあり得ないんですよ。歴史的に考えてみてね。まずその歴史を勉強してきているはずの方々が、一体どういう感覚をしているんだということを、まず僕は非常に強く思いました。

大塚: だから、地震が起きた直後には「新しい日本が始まるんだ」みたいな感覚ですよね。それが結局、これも安政の地震の時と同じで、要するに日本のフォークロア(古くから伝わる風習)は、1回地震が起きたり、あと百姓一揆が起きちゃったらば、そこで1回チャラになって、そこでリセットして陸地をまたゼロに戻して、またやり直していくとなったらまたチャラですよっていうね。その繰り返しでしょう。

 なんか、今さら「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」とか言いたくないんですけどもね。なんかその「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」を繰り返してるだけじゃないかって。もう20年も30年も前の民俗学の言い方をするのが、なにか今の震災後の日本を見ていると、それが一番しっくりくる気がして。だからそれが多分、「愚民」だの「土人」だの、あるいは「前近代」でもいいし、與那覇潤(日本近代史学者)さんなんかは「ずっと江戸が続いてるんだ」って言ってますけどね。

 要するに前近代的な枠組みっていうのかな。だからこの国を語るとすれば、何か近代的なフレームじゃなくて、やっぱ民俗学の、昔やってたみたいなフレームで語った方がしっくりくるんだよなという感じですよね。それかなにか地震の後にまた繰り返されたし、こんなに露骨に繰り返されていくっていうのは、もう嘆いてもしょうがないので、「あっ、そういうものなんだ」っていうね。

宮台: うん。あの、僕たちで喋らなきゃいけない。司会がいないんですよね。
大塚: そう。ただでさえ中森明夫に批判されてましたけどね。「お互いに勝手なことを言ったっていうだけだろう」って言うけど、しょうがないだもん、そういう人たちなんだから(笑)。

■「愚民社会」で読み解く橋下現象

「地元のおばちゃんは橋下好きなんだなぁってしみじみ感じる」

藤岡: じゃ、そういうことなので、何か司会的なことを一瞬しますか。本の中では、ノルウェーのテロ事件を日本がスルーしたっていうところで、まぁその「愚民社会ってどういうものか」というところの実例が終わってたんですけれども。まぁ最近の日本で話題になっている出来事と言えば、大阪市長の橋下さんが、とても人気があるということがあるんですけれど、それについて、2人がどういうふうにお考えかというのを今日うかがいたいと思うのですが、いかがでしょうか。では、それは大塚さんでいいですか?大塚さんは関西で働いてらっしゃいますので、お願いします。

大塚: だって、大阪の人がいいって言うんだから、いいわけでしょ。そんで、東京の人が「橋下と石原(都知事)がくっついていい」って言うんだったら、それいいじゃん。ほっとけばもう。神戸と行ったり来たりしてるんで、たまに大阪で降りて、難波の「自由軒」とかでカレーを食ったりするんですけども。そうするとやっぱり「地元のおばちゃんたちは橋下好きなんだなぁ」ってしみじみ感じるんですよ。テレビ見ながら石原新党とかニュースでやってると、「ほら石原さんまで橋下さんに擦り寄ってきたわ」とか嬉しそうに言って。その悪気のなさを見たときに、何かもう言う気もなくなっちゃってね。

 一つ、橋下市長を巡って面白かったなと思ったのは、選挙の時に(雑誌の)『新潮』がすごいネガティブキャンペーンやりましたよね。その時に「やれ橋下氏」と。それから「親族にヤクザがいる」とか、あるいは「被差別部落のエリアで彼が育った」とかね。そういったネガティブキャンペーンをやって。これ『新潮』の得意技ですよね。こういうネガティブキャンペーン持っていくと、だいたいそこでそれこそ、「愚民」だの「土人」でもなんでもいいんだけども、やっぱそこであっさり先導されてきたわけじゃないですか。『新潮』は、やっぱりそういうふうに大衆を先導することに関してもお家芸だったわけだけども、『新潮』が言わば先導できなくなって、逆に反撃くらったみたいなね。そこで僕はすごく人ごとのように面白かったですね。『新潮』が先導してきた人が、もう先導しきれないんだ。でもそれがネットの世論じゃなくて大阪のおばさんたちを、もう『新潮』が先導できないんだと思うと、そこがすごく面白かった。

 それから、たしか本の中でも少し言ったけど、あの前後くらいにそれこそ『新潮45』とか、それから『中央公論』あたりが「もう震災後の自由には戻りえない」「空気がおかしい」みたいな、保守系の論壇とかのくせに、なんか左翼みたいなこと言い出してみたいな。そういう形で、旧来のメディアみたいなものから、大衆でもなんでもいいんだけど、それが離れていっちゃって。その悲鳴みたいなのが聞こえてきて。なんかもう僕は、論壇ともなんも関係ないから、なんかあっちのほうで悲鳴が上がっててちょっと面白いなという気もするし、橋下も大嫌いだしみたいなぐらいのスタンスでしかないんだけども。

 ただ、『愚民社会』の趣旨に引きつけていけば、橋下市長が200人だか400人だか、広報と言うのか分からないけども、その人たちの質が問題になっていくわけでしょう。結局、それこそ、「愚民」が立つわけでしょっていう。「それでいいわけ?」っていうとこだけは、嫌味として言っておきたいと思うわけです。

 だって、すごい質悪いわけでしょう。維新の会の議員なんてはっきり言ったらば。それが民主党の、名簿の下の方の連中とか、自民党が勝った時の名簿の下の方の連中とか、もっと昔だったら間違って社民党が勝った時だって、どっかの大学院生がうっかり当選しちゃったみたいな。そういうふうなレベルの人が結局はブームになったらば、議員になっちゃうわけでしょ。そういう人たちをまた当選させちゃって、そんでもってせっかく期待したのに何てことしてくれたんだって、どうせまた怒るわけでしょ。「だったら好きにすりゃいいじゃん」っていうね。もう。なんか石原新党と橋下でなんかの過半数ぐらい・・・というか3分の2くらい獲っちゃって、もう憲法も改正してさ、それで徴兵でもやって1回戦争行ってくりゃいいんだよと思いますけどね。

■「"民主主義の危機"は日本に存在しない」

「僕は橋下さんについてそんなに悪い感情を持っていない」

宮台: ちょっと同じような調子で喋るのが難しくなったんだけども。僕は、橋下さんについてそんなに悪い感情を持っていないし、橋下現象についても特異なことが起こっているとは思わないけれども、橋下さんに対する批判に関して、やはりちょっとおかしいなと思うところがたくさんあるので、ちょっとそれを申し上げると絡むかなという気がするんですね。

 たしかに民主主義社会の多くは、特に先進国の多くは非常に危険的な状態にあるんですね。よく言われるのが、例えば北朝鮮の核問題については、ブッシュ(元)米大統領が就任する前の時点で、実はかなりある種の図式が出来上がっていて。要は、核を持つ北朝鮮側の理由は「体制の保全と援助」を引き出すということなんですけれども。そうした方向のロードマップに合意しつつあったところで、ブッシュさんがポピュリズムで強硬路線を取るということをやったわけです。

 同じようなポピュリズムはイラク戦争においても見られたわけで、これが例えばアメリカの自滅を早めてしまったという帰結もさることながら、それが民主主義的なプロセスで動員されてきたというところに多くの政治学者達や社会学者の一部は注目しているんですよね。つまり、グローバル化が進みますよね。そうすると従来の中産階級が先進国でどんどん沈んでいくんですよね。

 それはさっき言った利潤率金とかの法則で。要は、どのみち中国・インド・ロシア・ブラジルに追いつかれるような産業領域で、先進国がそれでも頑張ろうとすると労働者がどんどん貧しくなっていくんですよ。それが中産階級の崩壊という現象の本質なんですけども、それが多かれ少なかれどこの先進国でも起こっている。そうすると、右肩上がりではなくて、まさに右肩下がりでしかありえないというふうな将来イメージになり、右肩上がりの時にあり得たような将来構想や自分自身のセルフイメージを持ちにくくなってしまう。

 だから簡単に言えば、信頼よりむしろ不信が、どんどん前面に出てくるわけですよ。あるいは、安心よりも不安がどんどん前面に出てくるわけですよね。そうした不安や不信を、いわば"餌"とするポピュリズムというのが、もちろんこれはアメリカだけじゃなくてフランス、その他の国でも駆動するというのはまったく自然なこととして起こっているんです。なので、多くの政治学者が従来の"民主主義的なるもの"へのナイーブな信頼を続けていく場合には、どのみち行政官僚がより大きな権力を握っていくことになるでしょうから。したがって、「分権化と自治を進めるか」でなかったら「政治的な独裁を進めるか」のどっちかしかないというふうな議論があったりしているわけです。

 こうした議論から見ると、日本も不安や不信でポピュリズムが起こっているというふうに見える側面もあるので、山口二郎(北海道大教授)さんほかのリベラルな方々が「この橋下現象は民主主義の危機だ」というふうに、日本がほかの先進国並みであるかのような議論をするのは、分からないでもないけれども。僕に言わせると「大笑いだ」と言うほかにない。なぜかと言うと、日本は"民主主義社会"じゃないからなんですね(笑)。だから"民主主義の危機"なんかは、民主主義ではない以上、日本には存在していないんですよ。

■"近代化のない日本の虚ろな議論"

大塚: だから"民主主義の危機"だったらよかったんですけどねぇ(笑)。

宮台: そうなんですよね(笑)。"民主主義社会の危機"と言ってる人たちって、何のこと言っているのか、僕は全然分からなくて。むしろ民主主義社会に相当するものが日本に存在していない。だから大塚さんは、近代主義的な振る舞いをしておられた。「近代化をすすめよう」「啓蒙化をすすめよう」としておられた。僕の方は、日本は昔からずっと田吾作であり続けたように、多くの人はずっと田吾作であり続けるでしょうから。要は、田吾作とユダヤ・キリスト教文明圏の間を橋渡しするような、メディエイター、インタープリター、あるいは中間地帯を作っていく必要があるんだとずっと議論していて、そういう存在を養成しようともしてきていたということなんです。

 そこの問題意識、大塚さんと僕の間で、とても重要な対立であるかのように以前思っていたんですよね。大塚さんは国民全体の民度を上げられると思っていらっしゃって、僕はそれは不可能だと思っているので、一点突破・全面展開的に一部の人材を、それこそ柳田が帝国官僚に期待しようと思ったのと同じように、期待しようと思った。それは能力ということではなくて、まさに愚民種の反対ですよね。自分を送り出してくれた故郷の人間たちに恩義を感じるがゆえにリターンを返そうという倫理観を持ったエリート。なおかつ優秀なエリートを生み出すことに賭ける。中国やその他のアジアの諸国が賭けてきたのと同じような構成で、「日本もそれを目指していたのに」と多くの人たちが思っているはずで。そうした方向を目指そうとした。この違いが今日に至ってみると、さして大きな違いではなかったということですよね。

大塚: うーん。まぁ、期待しすぎていたんですね。

宮台: そうなんです。どちらも期待をしすぎたというふうに言えるし、残念ながら日本が民主主義社会ではないし。いわゆる近代的といわれるような要素をいくつか決定的に欠いていることに関する自覚が、残念ながら思ったように広がらなかったので、今でも非常に無防備なまま国益の議論をしたり、外交の議論をしたり、日米関係・日中関係の議論をしているところが非常に御粗末でね。大塚さんが見放したくなる気持ちは僕も本当によく分かりますね。

■「維新の会」を利用する?

大塚: だから、大阪の人は、せめて今、橋下に乗っかれば絶対議員になれるわけだから、その時にもう自民党いっても民主党いっても当選しないような人が、市議会選で当選しないようなどうでもいいような政治ゴロみたいなのじゃなくて、もう少しまともにモノを考えていく人間たちが橋下のところに行って、維新の会を乗っ取って、気が付いたら橋下とか全部追い出して、少し真面目な政治をやるとか。そういうのだったら利用のしがいもあると思うんですけどもね。だから、そこの辺りどうするかとかは、大阪の人の選択なんじゃないですか。

 石原慎太郎さん(東京都知事)が亀井静香(国民新党代表)と一緒にくっついてどうのこうのって言うと、今度は国政レベルの問題になってきてしまうんだろうけども。どさくさに紛れて議員になれるような環境が多分、今回の新党騒ぎでできるわけだから、そのどさくさみたいなものを自覚して、宮台さん的に言えば「民度の低い人間」や自分の頭だけで「自分は賢い」「唯一(正しい人間)だ」「国を変える」とかを思っているトンチンカンな人間ではなく、もう少しまともな人間がどさくさで当選してしまったら、また変わっていくのかもしれないけど。そういうことはないだろうなとか思うんですよね。

宮台: いや、そういうことはないと思うんですよ(笑)。

大塚: ないですよ(笑)。

宮台: 維新の会等々でどさくさで議員が当選する前から、例えば小泉チルドレンとか小沢チルドレン、本当のチルドレンが議員になったりとか、単に親が議員やってるから(自分も)議員をやるというような頭の悪い世襲議員も山ほどいたわけでしょ。これって、ほかの先進国どころか中国でもありえませんよね。例えば、マスメディアの世界でも早稲田や慶應や東大を出たようなジャリンコが、名刺一つで仕事できちゃうわけですよ。(例えば)『朝日新聞』という(社名が書かれた名刺一つで)ね。

大塚: (故)金正日(総書記)の長男(金正男氏)のほうが、ずっとまともだもんねぇ。

■「"べき論"では変わらない」

「この番組も『ニコ論壇』と呼ばれているの、大丈夫なの?」

宮台: そういうことができる(ジャリンコの新聞記者が、名刺一つで仕事できる)国っていうのは、実は日本以外にはまったく存在しないに近いんですよ。(アメリカでは)基本的には、地方からだんだんと中央に出てきて、最後にワシントン・ポスト紙やニューヨーク・タイムズ紙に行く。それは中国もまったく同じシステムですよね。(アメリカでは)政治家もそうで、村長や町長から始まって、あるいは市議会議員になったところから始まって、州知事を経て、あるいは上院議員になり下院議員になり、そして大統領になる。こういうルートがまず基本的なんですよね。実際、中央政府の議員になるとか、議長になるということは、それだけである種の実績を積んできたことの証であるし。実績を積んできたことを前提とした議論がなされる期待が人々にあるわけだけれども。

 日本の場合、政治家にそういう実績による信頼醸成なるものは、実はまったくないので。単に「今まで通りやってくれりゃいいんだ」みたいな。政策的な頭・能力を、まったく期待をしないような、簡単に言えば、政治家に対して「既得権益を温存してくれりゃいいんだ」というだけの期待だけで政治をやってきているから、世襲議員も放置されてきていたし、選挙区の不平等問題もずっと放置されてきていたし、あるいはなんとかチルドレンという本当のチルドレンが議員になる愚昧な事態も完全に放置されてきているわけで。党を問わず、日本の中央の議会は、本当に人材乏しいんですよね。烏合の衆の集まりとしか言いようが無い状況で。それ自体は別に問題じゃない。彼らが悪いわけじゃなくてね。このようなシステムが、「なぜ放置されてきたか」というところに、やはり問題があるわけで。僕はよく思うんだけど、そうした議論は僕が初めて言ったわけではなく、戦後60年ずっと言ってきているわけですけれど。それを言ってきたのが一部の論壇手なわけだけど。日本は「べき論」では絶対変わらないんですよ。「何とかするべきだ」って、まだ言ってる人たちはいるし。最近では『WEDGE』(ウェッジ)っていう雑誌が大笑い状況で(笑)。

大塚: 新幹線のグリーン席においてあるやつですね(笑)。

宮台: そう(笑)。僕もグリーン車に乗ったときに、本当に爆笑させていただくので。本当に愉快な娯楽誌になったと思いますけれども。つまり、ああいうレベルのものが論壇と呼ばれていて。このニコ生も『ニコ論壇』と呼ばれているの、どうなのこれ? 大丈夫なのか?一体。こんなところで「べき論」なんか話したって変わりゃしないから。もう、さっき大塚さんと3分ぐらい話したたけで「もういいんじゃないかな」っていう気になっちゃったんですけどね(笑)。

■橋下現象に期待する人々

大塚: うーん、まぁ、なんだ(苦笑)。疲れたな・・・(笑)。

藤岡: では、大阪の話はひとまずということで・・・。

宮台: あー、じゃあ、大坂の話続けると・・・。

藤岡: はい。

宮台: 僕、この間ちょっと関西学院大で仕事があったので、西宮市とか芦屋市とか、あの辺の人たちの話を聞くチャンスがあったんだけど。やっぱり、兵庫県の人たちも、かなりの人たちが橋下現象に期待をしてるのね。それはどういう事かと言うと、橋下さんがポジティブな存在だということよりも、橋下を批判している人たち、あるいは「従来橋下的ではなかった議会や地域の首長たちは一体何をやってきたんだ」と深い失望があって。簡単に言えば、「こちらはクソだ」って分かっている。でも、橋下は未規定だと。もしかしたら、大クソかもしれないけど、クソだって分かっているものを選ぶよりは未規定のものを選んだ方が良いと思っているわけですよ。

大塚: そのギャンブルは怖いですねぇ。

宮台: はい(笑)。

藤岡: 大塚さんは橋下さんのことを、あまりお好きではないという趣旨のことを仰っていたんですが。

大塚: 僕は左翼だから、君が代とか日の丸を強制するっていう段階で、もう嫌だもの(笑)。ただ、宮台さんの話にくっつけていけば、ずっと神戸にいるでしょう?例えば、神戸震災(阪神・淡路大震災)のときにニュースで観た長田区とか、今ああいうところに行くとコンクリートの高層マンションがズラーッと並んでて。でも、かつてそこに居た人たちはそこにいないわけですよ。あの時の復興資金がいくらだったかは全然覚えていないけど、めちゃくちゃ集まったでしょ。それを全部、ああいうもの(高層マンションなど)に突っ込んで、挙句の果てに、くっだらない「鉄人(28号)」とかを最後に残っていた金で建ててね。ルミナリエもやったのか。

 いろいろ聞いたんで言っちゃいたいんだけど、「こんなのに金使ってんの?」っていうバカみたいな使い方しちゃってさ。それで仮設住宅で死んでっちゃってる人たちだっていたわけでしょ。みたいなことを自分たちでやっといてさ。嫌な言い方すると、10年後20年後には長田区みたいに、東北はなっているんだよな。その時に、「橋下氏に期待する」と言っても、例えば神戸の人たちなんかは「もうお金落ちてこないんで、なんか知らないけど大阪の方から降ってこないかな」ぐらいのね。所詮これもカーゴ・カルトっぽい感じで。

宮台: (苦笑)

■3.11後に起きたある変化

大塚: 神戸は何もできなかったんですよ。偉そうに東日本大震災の後、神戸の連中は「自分たちの経験の経験は碑石だよ」とか言ってるけどさ。「何言ってんの?」みたいな。駅前のくっだらねぇモニュメントとか、(そういうものを)ウチの大学のバカ学長が作ったりするわけですよ。そんなんで金使ってるみたいなことを、東北は繰り返してしまうんですよ。

宮台: そうですねぇ・・・。

大塚: だから繰り返したくなかったらば、東北の人は橋下とは関係なく、まともに考えて議会に立候補して、自民党も民主党も維新の会も関係なく、全部ほっぽって自分たちで議席とって、自分らで変えていくみたいなことをしない限りは、多分神戸の繰り返しだろう。その辺りは、神戸にいてよく感じますよ。あともう一つ、流れで神戸の話をしたので。前に宮台さんに、ウチの近所の高校に来てもらったじゃないですか。

宮台: うんうん。

大塚: そこで毎年毎年、絵本書いてもらうワークショップをやっていて、一昨日、またやってきたんですよ。その時、ちょっと面白かったんだけれど、すごく内省的っていうのかなぁ・・・。自分の事について淡々と一人で考えるみたいなモチーフの作品が今年はすごく多くて。9割がそうだったのかな。ちょっとそれが面白かったんですよ。こんなふうに、17歳の子達が内省的になってモノを書くのっていうのは、同じ高校で6年教えているけど、初めてそういうものが集中して出てきて、「一体、何が変わったのかな?」て思った時に、なんとなく地震のことを思い出して。

 10代半ばの多感な子たちが、変にボランティアだとか、社会的なこととか、公共的なこととかを言わないで、ただひたすら内向・内省的に考えていて。しかも彼らの書くものに、ちゃんと風景とか世界がしっかりしていて、こんなふうに、もし震災で17(歳)子が変わったと言えるのだったら、違う良さかもしれないけど、それはちょっとだけ「希望が持てるのかな」っていうふうに思ったりもしたんだけど。まぁ、そんだけですね(笑)。

■消えていく"何か"とは

宮台: まぁ、街とか「パトリ」を愛する気持ちみたいなことについては、僕も震災の後にいろいろなところでしゃべったり、書いたりする機会があったんだけれども。例えば、僕が関わった『サウダージ』とか『国道20号線』という映画を描いた富田克也監督は、地方がある種の入れ替え可能な場所になっていく中での古いものの残照を描く。あるいは、その中で新しく出てきたものを描くっていうことを、ずっとやっておられるわけだけれども。彼が描いたものは、実は多くの人が知っていることなんですね。

 僕は80年代半ばから11年間ぐらいテレクラとか出会い系とか、売買春のフィールドワークをしていて日本全国を周っていたので、そのプロセスで「日本の地域社会はどう変わっていったのか」が手に取るように分かるんです。例えば、テレクラって最初の出会い系だけど、いわゆる厳密な意味での匿名メディアではなく、匿名性と非匿名性の間みたいなところがあったんです。だから、テレクラがあれだけ流行ったんです。

 初期のテレクラっていうのは、地元の男たちの溜り場だったし、地元にはテレクラ同好会があったし、同好会で集まると「いやぁ、この間は角の豆腐屋の女将とヤっちゃてさぁ」みたいな話、皆が知っているローカルなネタで盛り上がるみたいなところがあったんで、テレクラが全国に広がっていったことを僕はよく分かっているんですけれども。そういうテレクラを支えていた非匿名性が逆に消えてしまったことが、最初の出会い系であるテレクラの魅力を奪っていったものだし、他の出会い系がテレクラとは違うモノになっていくことの一つの原因だったんだけれど。まぁ、今日は出会い系の話じゃないからね(笑)。

 街の話ってことについて言うと、当時も取材を通じて行っていたんだけど、例えば老人会がなくなると、最後に70年代から80年代初めにかけて青年団がなくなるんです。取材した多くの若い20代、30代の奴が「青年団がなくなることがなければ、恐らくテレクラみたいなことは起こらない」と。その程度の空洞化やある種の匿名性の増大がなければ、テレクラは起こらないと。しかし、そういうふうに喋る年代は、まだ青年団とか老人会の記憶を持っているんですよ。こればっかりは非常に過渡的な現象だなって、当時も僕はものすごい強く意識していて。これはまさに戦間期がそうであったように、また大正ロマンや昭和モダンの時代がそうであったように、つまり(江戸川)乱歩がまさに描いたように、これはどんどん消えていく"何か"なんですよね。

 そういう気持ちが当時はありましたけれども、とにかく今、街がどこが問題なのかと言うと、多くの人間たちがより豊かで、便利で、アメニティがある場所に暮らしたいと思ってるんですね。そのときに、より所得が高い、よりアメニティが高い場所であれば「引っ越しましょう」と多くの人間が考えるところに問題があるんですね。どういうことかと言うと、何で「自分たちを、あるいは自分たちの街をより便利で、アメニティのあふれる街にしよう」と思わないで移動しようと思うのかというところに、いろいろな日本の問題が隠されている。もちろん、パトリつまり、入れ替え不可能な情緒的な愛着を感じるような要素が存在しないという意味でもあるし。

 あるいは人々がもともと地域で培う人間関係に相当するものが存在しないので、社会学ではよく「空間」と「場所」を分けますが、「空間」が「場所」になっておらず、どこも機能的な「空間」に過ぎないというふうな意識から抜け切れないということがあったりとか。そうしたことっていうのは、学問の世界ではずいぶん以前から議論されてきているんだけれども。残念ながら、そういういうことを知っている建築家の方々がほとんどいない。その建築家の方々と、社会学あるいは都市社会学の方々との交流もほとんど存在しない状況で、わけの分からないモニュメントや建物がどんどん建っていくと。

■"場所"が消えていく

大塚: まぁ、僕も神戸の大学にいるんだけど。学園都市にあってね。初めて自分が行く大学に降り立ったときに、すごい「既視感」とか「デジャブ」があったんですね。「絶対、ここの風景見たことある」と。校内には入ったら、絶対見たことがあるんですよね。初めて来たのに。当たり前なんですよね。ウチの大学の学生寮を作った建築家がここでも設計してて。「なんちゅう運命、因果だ」と思ったんだけれども。でも、そういうことですよね。結局、建物を作る連中っていうのは、まあ宮台さんが仰る場所性みたいなことなんて全然気にしないしね。でもオーダーする側も気にしないんですよね。

 だから、田舎の大学にいると、田舎の商工会議所なんかと付き合って、なんだかんだ言って村興し・地域興しに付き合うわけですよ。そうすると、結局、彼らが言うのは「萌えキャラ作れ」と。今度は商店街の人に聞くと「吉祥寺みたいな街にしたい」とかね。もう結局はそのレベルなんですよ。また神戸市が悪口だけど、何やったかって言うとバーニーズ・ニューヨーク(米の百貨店)持ってきて、「これでまた客が来る」とかね。知らないでしょ、東京に住んでる人は。バーニーズ・ニューヨークが伊勢丹の裏側にちんまりとあって、誰も行かないなんて。でも、あれ連れてきたら旧居留地に人が集まるって思い込んでて、でかでかとニュースになるとかね。そういうふうに、「鉄人(28号)」持ってくるとかね。それこそ場所性という概念さえなくて、それで人呼ぼうとするとか

 だから、本当に神戸の悪口ばっかりになっちゃうけど、同じようなことを東北が繰り返していくんだったらば、それは多分徹底的なんだろうなってね。一応あそこは、それこそ遠野があったとこだし、柳田國男の民俗学の、ある部分が始まったとこでもあるしね。でも、最後に残っていた日本の場所性みたいなものを象徴する場所が消えていくっていうのは。なかなか東北って、あの震災っていうのは僕にとっては感慨深いなって。

 もう話はぐちゃぐちゃになるけど、何年か前に、椎葉村っていう九州の山奥の村が、台風か何かで壊滅したんですよ。これが、柳田國男が『後狩詞記』というのを書いたところで、そういった民俗学の故郷みたいなものが壊滅していくの見ながら、なんとなくさっきの場所性の問題じゃないけれども。まぁそんなふうに椎葉村がなくなったってこと自体も、多分そのことの意味ってなんとなく誰もね。あそこで日本の場所性みたいな概念を柳田國男は発見したわけですよ。だけど、それがなくなったことを誰も気にしていないんだろうと思うと、「何が故郷だ」と「何が愛郷心だ」とか「何が日本だ」とか思いますよね。

■「陶冶から淘汰のメカニズムへ」

宮台真司氏(左)と大塚英志氏

宮台: 社会学では、時間的にかなり続く、変えにくい行為態度のことを「エートス」と呼ぶ。日本人のエートスというのは、中国人のエートスやアメリカ人のエートスが変わらないように、そう簡単には変わらないんです。なので、以前僕が大塚さんを批判するときに使っていたロジックですけど、エートスを変えようっていうのは非常に難しいので、やっても構わないけど、それは長期的に構えるべきで、短期的・中期的にはまた別の戦略が必要だなって思うんですね。

 僕がそういうときに考えるのは、「べき論」を使って「陶冶(とうや)」するのではなくて、システムを使って「淘汰(とうた)」する、「陶冶よりも淘汰」ということをやはり考えるんですね。だから例えば、任せてブーたれるのをやめて引き受けて考えるべきだとか、あるいは合理性を尊重するべきであって空気に縛られるべきでないというような言い方は、一応しますけれども。それは言い方そのもので、ほとんど効力を考えていなくて、引き受けて考えない人たち、つまり、任せてブーたれるだけの人間たちや空気に縛られるだけの人間たちがいるような社会的なユニットが、どんどん淘汰されるような仕組みがあれば、簡単なことだと思うんですね。

 世界的にも。つまり、もし僕が日本的なるものへの愛着を断ち切ったところで言えば、日本という社会的なユニットが全体として、今僕が申し上げたような意味で淘汰されていくのであれば、世界にとっては幸いなるかなというふうに言えるかもしれないというところがあるんですね。ただ僕は日本人だし、日本に対する愛着もあるので、日本の存続を行為・行動的な立場から言えば、むしろ今日本人全体をどうのこうのと考えるよりも、まずこの「陶冶よりも淘汰」のシステムを作りたいと思いますよね。

 そのうちは政治家の淘汰であり、官僚の淘汰であるわけですけれども、やっぱりその淘汰のメカニズムを作らなきゃいけないんだけど。これは例えば、鍵のかかった箱の中の鍵問題でね。じゃあその仕組みを誰が作るのかが問題になるんだけど、これずっと日本で、陰に日なたに問題になり続けてきた密教的な問題というか、要は僕の言葉でいうネタがベタになりやすい問題ですよね。

 例えば、なぜ国粋主義的なるものが明治20年代、とりわけ後半以降に高まったのかと言うと、これはむしろ近代的な人間たちが、天皇主義的なるものを近代化のための道具に使おうとしたからですよね。とりわけ山県有朋なんかは一番分かりやすい典型だけれども、西南戦争の教訓から、やはりカリスマは非常に重要で、単なる政党制の厳選であるだけではなくて、そのカリスマによって命がけで戦うような、つまり西郷軍のことですよね。その存在を作り出すためには、単なる親政政治的なるものに見えるだけじゃなくて、天皇にカリスマを与える必要があるというふうに考えたわけですよね。つまり天皇主義を設計した人間たちは、天皇主義者ではないわけだけれども、実際にその後国粋主義者がどんどん出てきて、いわば啓蒙派狩りとか近代派狩りを始める状況になる。こうした状況は、日本ではだいたい20年ごとに繰り返されてきていて、あえて統合主義的なシンボルを作り出した非統合主義者が、しかしその後作り出された者によって滅ぼされていくみたいなことが起こっているんですよね。

■日本に"近代的個人"は存在するか

大塚: 僕は宮台さんの言うエートスみたいなことって、逆にあんまり信じなくて。民俗学でエートスとかエタノスなんて言い出したのは、ナチスドイツ下のウィーンから戻ってきた岡正雄あたりが言い出して、それを戦後の民俗学者が使い出しただけで。もともとが近代以前の(日本の)社会は、小さな村社会とかせいぜい今で言ったら「お国自慢」の「国」というレベルですよね。

 関西で言ったら、姫路と神戸と、それから大阪でも南の方と北の方と、地域ごとに関西弁が微妙に違うらしいんだけども。関東の人間には分からないけども、その微妙な言葉のニュアンスの違いぐらいが、国の概念ですよね。その中で、一つのフォークロアとか文化の体系みたいなものがあって、それは強引に何か日本の一つのエタノスみたいなものがあるんだって言い張っちゃったりが、多分、戦後のフォークロアの問題なんだけれども。

 ただ問題なのは、そうやって前近代的な枠組みから近代にいくときの、移行期の多分細部設計とか移行のあたりのとこにきっといろんな問題点があったんだろうなって。そこの辺りのことは、もう世の中のことがどうでもいいと思ってるから、逆に「これから少し考えとこうかな、のんびりと」と思ってはいるんだけれども。だから例えば近代的個人が日本で未成立だったって(宮台さんは)言うわけですよね。言い出したのはパーシヴァル・ローウェルって人が「進化論的に日本人は劣っているから自我が未成熟だ」というふうに言った辺りに始まっちゃうんだけれども。

 ただ、実際には日本のフォークロア的な民族的な習慣を見ていったらば、個人っていう概念がないわけではないし、共同体的なシステムや社会的なシステムみたいなものがないわけではないんだけれども、それがなぜ近代に移行し損ねたのかみたいな。そこの辺りの問題を一つ見直しておいたほうがいいのかなって気がするわけですよね。

■"わかっちゃいるけどやめられない"エリートたち

宮台真司氏

宮台: そのどこを見直すべきなのかというポイントについて、ちょっと喋りたいと思うんですけれども。その日本的エリートの戦後的な形態の、その特徴は「わかっちゃいるけどやめられない」ところにあると思うんです。で、それがまず一つは、僕のコミュニケーションの範囲で言うと、原子力村の中の人たちが「原子力に関して言いたい」という思いがそうですよね。それは、今やそれが非防備だということが分かったとしても、今さらやめられないということが、戦前とほとんど同じ、戦中と同じということですよね。

 この間、『マル激トーク・オン・ディマンド』(ビデオニュース・ドットコム)という僕が関わっている番組で、高橋洋一(経済学者)さんを何度目かお呼びした。彼は「大蔵省、現在の財務省が財政再建路線をとっているという皆さんの想定が、実は盲点になっている」と。「財務省は、そうしたことを組織目標にしたことはまったくない」と。「財務省の組織目標はいつも増税である」と。正確に言うと、増税を通じた利権の拡大であるということなんですね。

 増税を通じた利権の拡大をするためには、例えば、ヨーロッパのような年3、4%の成長率を確保することによる財政再建という、まったくオーソドックスなやり方で財政が再建されると、かえって不都合なんですね。ですから、むしろ日銀のような愚昧な政策をむしろ放置することに加担をし、増税をさせると。あるいは、これは「知っていることだ」って彼も言いますけども、財務省の役人は税と社会保障の一体改革って、これ大笑いで、社会保障費の危機・年金の危機があるならば、社会保障に関わる、例えば保険料とか年金料とかを対処すべきなのであって、もともと逆進性の疑いがあるような消費税を導入するのは間違いだってことは、これは国際常識であるはずで。

 あるいは社会保障にはそもそも所得再配分という意味があるなら、所得税はもともと、あるいは給付付き累進性という制度も一部の先進国でありますけれども、所得税を使って社会保障費、要するに年金・積立金とかでやらないのであれば、所得税でやるのが普通だ。これはもちろん財務省は皆分かっている。けれども面白いですよ。「いや、わかっているけど、やめられないんだ」って言うんですね。

 同じようなことは、孫崎亨(元外交官)さんがやっぱり仰っています。尖閣諸島の問題は、中国が言っているように、もともと日本にボールがあるということなんです。どういうことかと言うと、「田中・周恩来協定」と、その7、8年後に行われた「大平・ケ小平協定」、これは「ケ小平宣言」という形で表になっていますけれども、要は「主権棚上げ」と「日本の実効支配・施政権を認めること」と「共同開発という図式でやっていきましょう」ということなんです。それを前提にして、でき上がったのが「日中漁業協定」という枠組みで、この枠組みにしたがえば、まずその日本の実効支配する領域に中国の漁船が入った場合には、停船命令ではなくてまず退去命令を出すと。退去命令を出しても操業を続ける場合には、停船命令を出すと。しかしその場合に、逮捕・起訴の図式は作らずに、拿捕・強制送還の図式を使うことが、ずっと踏み行われてきたはずであると

 ところが、「ビデオを見ても分かるように」と孫崎さんは仰るんだけれども、「まず停船命令を出してしまっている」と。強制退去命令に関するビデオは存在しないと。恐らく最初から停船命令を出したのだろう。そうするとこれは、日本の側から説明しなくてはいけないバイオレーション・違背ですよ。それだけじゃなくて、拿捕・強制送還図式ではなくて逮捕・起訴図式を使った。これも、従来と違うやり方を日本のほうからやっていて、日本のほうが実は説明するべき問題なんですね。

 孫崎さんの分析によると、「恐らくこれは日本の当時の国交相の前原さんなどが、アメリカにおうかがいを立てて、アメリカにある戦略があって、中国と日本の間を引き離して、当時普天間問題等で日米関係がギクシャクしていたのを疑似的に修復するっていう観点があったのでしょうか」というふうに仰ってるけれども。要は、そのアメリカに言われる通り、日本がやってしまった結果、大笑いの時代になってしまった。これも、孫崎さんによると、「外務省の役人の多くは知っていることだ」と言うんですね。知っていることだ。

 しかし、やめられないんですよ。これは、合理性が分からないとかっていうことではなくて、先程も申し上げたように、合理性や知識が、尊重されないんですよね。それは例えば御用学者って皆さんが仰るときに、最近の日本的専門家に対するイメージにも共通する"何か"なんですよね。その心理に無条件に帰依するのではなくて、条件付きでしか帰依しない。その条件は多くの場合、空気であったりとか自分の所属であったりとか、あるいは自分がやっているゲームのプラットフォームを温存することが可能な限りっていうことであったりとかっていう。どうもそういうことであるらしいのですね。これは、しかし僕に言わせると、あまりにも繰り返されるので、もしエートスとまで言わないまでも、これは明らかに何か行動習慣が欠けているというふうに言うほかない。あるいは、行動習慣を保つシステムが存在しないというふうに言うほかなくて。それを変えなくては、総理が変わろうが誰がすげ替ろうが、日本はやっぱりどうにもならないと思いますね。

■村的共同体でネットワークが完結した日本

大塚英志氏

大塚: だから例えば、その村的な地域的な共同体の中で、ネットワークが完結していて、これはあの『中国化する日本』を書いた與那覇潤氏の受け売りではあるんだけども、その支援的な社会を超えたような、ある共同的な枠組みみたいなものを、なんか社会の中に作りえなかったみたいな。だから、別に宣伝するわけじゃないけど、太田出版の雑誌で與那覇氏と喋ったときに、アメリカの秘密結社の話をしたんですね。

 秘密結社って言うとオカルトになっちゃうけどそうじゃなくて、要するにフリーメイソンにしても何にしても、アメリカでは近代的な市民社会ができあがる前段というか過渡期のときに、要するに結社がたくさんできますよね。結社は、保険組合のいわば前身だっていったり、ライオンズクラブの前身だったり、アメリカのクラブハウスみたいな利権主義の前身だったりするわけだけども。やっぱり近代からこっち側しかなくて、人工的に地域社会を作ってくアメリカにおいては、そういった結社みたいなものを通じた職能集団とか、あるいは利益集団みたいなものを通じて個人が繋がり合っていくみたいな。例えばそういうふうな枠組みみたいなものを作ったわけですよね。

 柳田國男の「産業組合論」などを読んでいくと、多分そんな感じがするんですよね。それから、彼が考えていた、民俗学者たちのネットワークそのものが、学問的な組織だって思うから、柳田國男が城を奪ったとなるけど。多分、彼もそういった村的な共同体を超えたようなネットワークみたいなものを、民俗学の組織みたいなもので、実験的に作ろうとしていた気がするんですよね。

 そういう地縁的な共同体を超えたような、ある職業とか、そういったもので結びついたような、別のネットワークみたいなものが存在しない環境の中で、例えばいきなり労働組合ができちゃうでしょう。アメリカの場合は、結社みたいなものがあって、結社が労働組合に移行していったりするわけじゃないですか。そういった、結社的な基盤がないのが日本社会の一つの問題点だったのかなと。

宮台: それはまったく仰る通りだと思いました。

■巨大なものへの依存

大塚: 中国だって、太平天国の乱にしたって何にしたって、だいたい革命もどきのコストって結社の人たちですよね。結社があるから共産党もああいうふうにうまくいったんだろうなとか思っちゃう。

宮台: そうなんですよね。太平天国もそうだけど、ある種疑似的なキリスト教運動だけれども、それで国を作ってしまおうとするんですよね。国ができるわけですよね。それが典型的だけれども、例えば江戸時代、(日本には)170いくつの藩があって、それなりの地域の自治があったってトンチンカンなことをいう歴史学者がいるんだけども。そうではなくて、これがたしかに、さまざまな共同作業に対する自治はあったけれども、この自治は武士によるガバナンス・統治に依存しているんですよね。その武士の統治は、特に徳川の3代を通じて、周到に作り上げたある種のガバナンスのストラテジーに基づく各藩の統治があって、それに依存して農村がある。

 同じで、日本の労働組合も、経済界、そのほか巨大なものへの依存があって初めて存在する何かなんですよ。それが日本の企業別労働組合っていうもののまず特徴なんですね。なので、アソシエーショニズム、アソシエーションを作って自分たちの一つの社会にしようというような発想っていうのは、日本にもともとない。

 アメリカの場合には、ご存じのように、アングリカン・チャーチから迫害を逃れたピルグリム・ファーザーズたちが宗教的新天地を作るっていう意味で、宗教的な自治をしようとしてウィリアム・ペンのペンシルバニアであるとか、あるいはユタ州のモルモン教とか、そういう宗教的な自治地区っていうのができていくわけですよね。

 日本にそうした運動ってまったくなかったわけじゃないけれども、非常に薄くて。まぁ、あとで少し時間があれば詳しく言ってもいいけど、至るところに自治に見えるものがあっても、すべて依存なんですね。大学の自治会みたいなものと同じものを自治と呼んできた愚昧さがあるんです。

 さて、我々が愚昧だとして、我々が。2番目の質問をさせていただきます。わたしが質問していいですか?皆さんに。「日本人は愚民だと思われますか?日本人は愚民でしょうか?」。(コメントを見ながら)おお、半数が日本は愚民だと思う。じゃあ、次のご質問をよろしいでしょうか。「あなたご自身は愚民の一人だと思いますか?」

■日本人は愚民か

宮台真司氏(左)と大塚英志氏

大塚: 意地の悪い質問を(笑)。

宮台: (愚民だとする回答が多くて)これは、わたしの社会調査の経験から言うと稀有なことです。

大塚: そうなんだ。
: そうなんです。

大塚: 社会学者的に誘導してこうなったんじゃないんだ?

宮台: 2000年の、NHKの放送研究所で日本人の性行動と性意識という調査の設計を僕したんですけど、そのときに「売買春の良し悪し」について尋ねるんです。「売買春はいいと思いますか?」という質問と「あなた自身はどう思いますか?」という質問を聞くと必ず分かれるんですよ。「売買春はいいと思いますか?」という質問をすると、これはよく知られてるんだけど、日本人の多くは自分としての自分じゃなくて、なんとなく社会はこう思ってるんじゃないの、みたいなことを答えてしまいがちで。

 「あなたご自身は?」って聞くと、それとは違う答えをしてしまうということがよくあるんだけど、今の場合はまったく同じでしたよね。「日本人は愚民か?」と「あなた自身は愚民か?」って話をすると、質問に対して同じ答えを、同じ比率を答えてらっしゃいましたよね。これは非常に重要なことで、「周りの日本人は愚民だ」という空気になるから「愚民だ」と言っているわけではなくて、私たちの今の話に説得されたのかどうかは分かりませんけれども、たしかに私たちを含めて「愚民だなぁ」と思っている。

 つまり「自分たちはある種の行動習慣がないなぁ」というふうに思っているということで、世間的に思われているものを自動的に答えているということではないということですよね。その分ほら、皆さん愚民ではありませんね。

大塚: 自分で「土人」とか言っといて、なんだって話なんだけどね。『愚民社会』って書名聞いたときに、ほら一時期新書で「バカ」って付けると売れたじゃないですか。だいたいそういう読者って「自分はバカじゃない」という前提で「バカ」ってついた本を読むじゃないですか。だから、自分で「土人」とか言っといて人の話だけど。さっきの編集に聞いたら、「宮台とか大塚に上から目線で"愚民"と言われたくない」って苦情を持って来ているらしいんですけど。

宮台: (笑)

大塚: でもね、「そういうリアクションなのかな」っていうふうに思っていたら、なんかこんなふうに、まともに答えられてしまうと、なんかどうしようっていうかね(笑)。少し希望を持てと言うのかとかいう気がしてきちゃうんだけども。でも、もしかしたら、さっきの成り行きで話した神戸の子たちが、すごく良い意味で内省的になってるってこととも関わってくるのかも知れないのかなって気もちょっとします。だから、どうなんだろ。

 僕はもうすっかり投げやりになってるけども、逆に僕って世の中の空気に乗れない人間なんで、僕がこんだけ投げやりになっているってことは、もしかしたら少し良い方向に揺り戻しが来ているのかなっていう、なんか身も蓋も無い言い方ですけども、そんな気がしなくもないなって。

 宮台さんはすごく内省的で、まともになってて、僕はこの間の対談でも宮台さん、相当に皮肉を言ったじゃないですか。だけども、これお世辞でも何でもなくって、宮台真司のまともさ・ナイーブさってものを、僕はずっと信用してきたわけであって。それを宮台さんは人前で見せることは無かったくせに、ああいうふうに、ある種堂々とした宮台真司を見た時に、多分混ぜっ返したくなって、愚民と言ってどういう反応をするのかみたいな、そういう意地悪をしたいというのもあったんだけども。そんでもまあ、割とブレないで、あれ以降ずっとまとも。そういうのを見ていると、少し違う方向に行く可能性もあるのかなと思いながら、「さて、でもやっぱりなぁ」とかね。そこの辺りが僕の中では・・・。

■「大衆に訴えるスタンスがリアルでなくなる」

宮台真司氏(左)と大塚英志氏

宮台: そこは、「やっぱりなぁ」っていうふうに諦める気持ちと。例えば、大塚さん今、実践をやってらっしゃるじゃないですか。国民全体を巻き込むっていうことではなくて、その創作実践を通じて、プロ集団を創ったり、送り出そうとしておられますよね。僕はこの2000年紀に入ってから、特に9.11以降ですけども、カルチャーセンターで聞く方々の雰囲気が随分変わった。

 僕のゼミは7、8割外部者ですけど、そうしたゼミに来る人たちの雰囲気も非常に変わって、まず大塚さんの仰る通り、非常に内省的になっていて、「最先端の思考を教えてください」っていう人はほとんど居らず、古典について理解したいという人が大半なんですね。今のカルチャーセンターって、古典に関する講座だらけになっているんです。それが一つあり、なおかつ僕だけじゃなくて、僕も10年前くらいから私塾を始めましたけども、私塾を作っていらっしゃる方が非常に多いんですね。これはいわゆるインターネット化を前提にして、もうマスメディアには無理だから、本屋が無理だから。あ、出版社がいらっしゃるところでアレですけど(笑)。

 要するに、自分でメルマガ出そうとかいう前から生じてる動きで。要は、いわゆる大衆、あるいはマスに対して訴えるスタンスが、2000年紀に入って非常にリアルではなくなってきていて、もう日本とか東京って感覚が分からないが、自分が手の届く範囲については、日本がどうなろうが、東京がどうなろうが、一定のホメオスタシスを実現し続けていこうっていう意思がやはり出てきているように僕は思うんですね。

 僕自身にも、そういうメンタリティって非常にあり、表面的な政治的な発言は別にして、日本全体をどうのこうの「べき論」によって動かそうとかっていう構想には、まったく現実性を感じないし。今のところ、「陶冶から淘汰へ」っていうやり方にしても、そういう言い方だけで反発されるっていうことが大半であるので、まあこれも今すぐ現実化できるってことがありえないとすれば、やはり自分の手が届く範囲、自分の私塾、あるいは最大限で言うと、僕も今関わっている世田谷区の行政(など)ですよね。そうしたもの以上のものについては、とりあえず関心を持たないっていうふうな態度を・・・。いやもちろん、知識としては参照しようとはしてますが、関心がないんですね。ですから日本の将来についても今のところは関心がない。それは関心を持っても仕方がないのでということで、そこは大塚さんと同じように僕も諦めているということですけども。全部諦めたわけではなくて、さっき言った「アソシエーショニズム」の基本は、全体に依存しないということなんですよ。

 日本の労働組合をはじめとするアソシエーション的なものとの違いは、全体に依存しているんです。その想像化された全体、日本であったりとか、日本人的なるものであったりとか。それに依存をしているんですね。これが違うということが大事で、そういう意味で言えば、全体についての諦めと、自分たちの手が届く範囲における結束と、ホメオスタシスってことについて、関心を持つことで言えば、これはアソシエーショニズムに少し近づいたとも言えるんですよね。

■「現場の中にあった教育は間違ってなかった」

大塚: 『愚民社会』の中でも最後の方に言っているけど、「諦めた」ってうそぶいている割には、一方で諦めが悪くて。結局、論壇が嫌になって文壇屋になって、ふらっと神戸の先生になった時に、ずっとそこで拘ったのはカリキュラムを作るってことです。つまり、目の前に出来の悪い学生たちがいて、意味分かんないこと言っていて。その子たちと関わっていく中で、何か僕は高邁な思想を教えられるわけではないけども、ただモノの教え方みたいな、その枠組みみたいなものを、彼らと関わっていくと作っていけるなと。

 カリキュラムって一定の汎用性があるわけですよね。柳田國男の民俗学っていうのも、コミュニケーションとか言葉の作り方とか、社会の認識の仕方に関するカリキュラムを作っていくというのが彼の仕事だったわけですよね。でもその時に、具体的に向かい合っていくのは、目の前の一人ひとりの個別の小さな社会の人間達であるみたいな。そこ辺りの、思想ではなくてカリキュラム自体を作っていく実践は、多分あっちこっちに実際にあれば、少し物事は変わっていくだろうし。

 戦後の教育はすごい評判悪いけども、僕はそんなに戦後の教育が悪いと思っていない年代に育った人間なんですよね。つまり、ある時期の教師たちは、多分カリキュラム作りに熱心だった時代があるんですよ。日教組大会なんか行くと、左翼の話ばっかしているんじゃなくて、昔はちゃんと"私の教育実践"みたいな感じで、「こういうカリキュラム作りました」みたいな発表の試合みたいなことをやっていくのが、かつての一時期の日教組大会の姿であって。それが結局は、いわば既得権を守る労働者集団になっちゃって、誰ももう教育実践についてなんか喋んなくなっちゃったみたいな。

 そこがおかしな話であって、例えば、橋下・大阪市長が大阪でどういう教育改革をするか分からないけども、問題なのは、そうやってカリキュラムを作っていき、そのカリキュラムみたいなのを共有し合っていくような教育のあり方みたいなものが、もう一回作り上げられていけば、多分一番下の世代からまだ作り直していける余裕があるんじゃないかなって気がするんですよね。僕が橋下にイラッと来るのは、教育の問題を、君が代や日の丸に対して起立させれば、それで教育改革が終わったというふうに、大半の有権者が思ってしまって。そうではなくて、具体的な一つ一つの授業のやり方や教え方を、教育の現場で作っていかなければいけない。そこが問題なんですよね。

 また、こんなこと言うと誤解されるかもしれないけど、例えば、僕の高校の時の倫理社会の先生って、1年間かけて『共産党宣言』を読むわけですよ。すごいんですよね。だけども、別に共産主義や社会主義について教えるわけではなくて、そこで彼が教えるのは社会学的な書物の読み方なんですよね。そうすると、そこで初めて社会学的な本って「ああ、こうやって読むんだ」ってことが分かれば、あとは勝手に倫社の教科書に載っている人たちの思想の本は、それぞれの関心で読んでいけるわけじゃないですか。だからそれも一つのカリキュラムだったわけですよね。

 あと1年間を通して、生物の先生は食虫植物について話し続けていて。多分それは、エコロジーについて彼は話していたんですよ、今思うと。ただ、それで多分、一つの認識の仕方を教わって、最後の1週間で「受験に生物の細胞分裂が出るから、それだけやるね」って教科書を取り出すんだけども。なんかそうやって、物事の根本の思考を教えるみたいな教育を普通の都立高で行っていたんですよね。都教祖とか日教組とか強い時代ですから、高校に入ってからすぐ1週間ストとか。そういう時代ですよ、バチバチの。

 でも現場の中にあった教育って、そんなに間違ってなかったなって気がするし。高校の先生と付き合っていると、面白い教育っていうか、面白いカリキュラム作りをしている先生が沢山いるんです。でもそういう人たちは組合にも入っていないし、割とマイペースで一人でやっていっているみたいな。そこがすごくもったいないなぁと思うんだけれども。

 そういう意味で教育みたいなものに対して、僕は全然、実は絶望していないし。だから、橋下にしても石原慎太郎にしても、教育問題やろうとするけどもね、その教育問題ってのが何か議論がすり替わっていて。一つのものに対して頭を下げさせて、それが公共性だっていう教育じゃなくて、いわば一つの実践みたいなものが普遍的に共有されていくようなカリキュラムを作っていけるような教師を作れるような教育改革だったならば、やれるもんなら橋下でも石原でもやってみりゃいいじゃんって思うんだけれども。果たしてどうなんだろうっていうところなんですよね。

■形式主義が蔓延る教育現場

宮台真司氏

宮台: 僕は、6歳から12歳まで関西で育ったんですよ。京都なんですけどね。当時は共産市政・共産府政だったので、僕自身も大塚さんと同じような反戦教育を徹底して組合教員から受けてきたって経験がありますが。ニつのことを言いたいんですよ。一つは橋下さんに直接絡む問題なんだけど、関西って今でも公共機関を利用したり、図書館に行ったりすると、公務員の態度がずいぶん横柄なんですよ、東京に比べると。

大塚: それはそうですね。大学の職員だって横柄だもん。

宮台: そう。一つ申し上げたいのは、東京って僕らが大学生だった頃、大学の職員も当時の国鉄の職員も図書館の職員もすごい横柄だったんですよ。東京は今それでは通用しないっていうことになって、そういう雰囲気のところは随分なくなりましたけども。関西はまだそれが残っているんですよね。これは非常に重要なことで、「組合利権・何とか利権が、説明責任を果たさないで残っている」っていうふうに多くの人が思っていて。しかも組合の中の同調圧力が非常に強くて、目安箱を設置すると、いろんなホイッスル・ウィスパーというか内部告発がありまくるっていう状態。

 教育について言うと、以前は右肩上がりであるがゆえに、いろいろな活動の自由がそれなりに存在した組合や団体の縛りが非常に強くなっていて。それは特に大阪が非常に顕著なので、例えば世田谷区で僕が主張しているような参加と自治が、何とか利権っていうのを一個一個ぶっ壊していかないと、どうにもならないぐらい強い所だって意識は、僕にもあるので。

 例えば世田谷区の保坂展人区長と同じようなことを、大阪の各地域で実現できるとは僕はまったく思わない。そういう面で橋下さんは仕方ないのかなと思うのが一つある。あと、僕らについて言うと、今の組合の話と似ていて、やっぱり右肩下がりですよね。生き残りを賭けなければいけないって話になっていて、東大の最近の9月入学問題もそうだけれども。要は「アメリカ化しよう」「シラバスをちゃんと作って、15回分の講義について計画をちゃんとやりなさい」とか「自己評価レポートを毎回出しなさい」とか。

 何だか知らないけど、クソみたいな、教育の実質に関係ないような決まりごとがいっぱい続いて、事務仕事が何倍にも増えて、その中で形さえ踏まえてれば、それでOKなのかみたいなね。本当にくだらない、内実を問わない形式主義みたいなのが蔓延っていると思うんですよ。僕ら窮屈になっちゃっていて。昔だったら、僕らにとっての良い先生は、自然休講30分の後にノソノソ出てくる先生は普通だったし、二日酔いでアルコールの臭いがするのも普通でしたけど。小室直樹先生とかですけども。私としては全然問題なかったですよ、実りがあったので。しかし、今では絶対そんなの許されない。今から10年前ぐらいから、どこでも起こった現象。僕が授業に10分遅れて行くと「授業料返してください」とか言うアホな学生が居るんですよ。

大塚: (笑)

宮台: あるいは「君は、レジュメの作り方が全然なってないじゃないか。出直してこい」って言うと、事務から電話があって「宮台先生、人格を攻撃されたってクレームが来てます」とかね。クソみたいな感じになっているんですよ。「これじゃあ、僕は大学では教育ができない」って思っている人が実は多いので、大学の教員が次々と私塾を作っていく現象があるっていうふうに思います。僕自身は明らかにそうで、大学の現在の制度のシステムの中で、大学の正規の学生だけをメンバーとして、かつてのゼミや講義の水準を維持するのは、非常に難しい・・・不可能です。

 いろんな仕掛けを、工夫してやらなければならず。僕の今いる大学は、そういう工夫を許してくれるから、何とかそこに僕はいますけども。それを許さない大学も多いですからね。それを許されない大学にいらっしゃる先生方が私塾をやるのは当たり前。あるいは大学を辞めるのも、それを合理的だと思わざるを得ないくらいなんです。

 ユーザー質問をとれって話が着ているので、とっていいよろしいですか。

大塚: どうぞどうぞ(笑)。

■「どこの社会にも"愚民"はいるが・・・」

宮台真司氏(左)と大塚英志氏

宮台: じゃあ、ユーザー質問のお時間だそうです。

司会者: お話ありがとうございます。たくさんユーザー質問が着ているのでご紹介させて下さい。まず一つ目は、東京都・30代の男性からです。「二人は日本が終わったという話をされていますが、世界のどこかに近代的、あるいは、愚民ではない社会はありますか?」

宮台: アメリカを見てくださいよ。インターネット化の広がりが元で、アメリカのいわゆる中西部・南部の、昔、中西部の労働組合なんかが共和党の支持母体だったんだけど、南部の高卒の白人が支持母体としてインターネットでせせり出してきた途端に、ポピュリズムが駆動して、ブッシュ政権が誕生したってことからも分かるように、愚民がたくさんいるんです、どこの社会でもね。

 ただ問題は、そのことを前提として社会が進路を誤らないような仕組みをうまく作っているかどうかが大事で、そういう意味で言えば、例えばリクルーティングのシステム、あるいは人材の抜擢のシステム、「地方から中央へ」というシステムを、日本以外の先進国どこでも持っているけど、日本だけが持っていませんよね。持っていないことへの理由をちゃんと説明できるならば良いけども、日本は説明できていませんよね。

 同じで、中国だって、例えば私の先生だった小室直樹先生は90年代半ばまで「中国は近代化できない」っていうふうに言っていた。でも、中国は程なくアメリカのGDPを確実に抜くことが分かっていますよね。その後は、「インドに抜かれるのか」「その時期はいつなのか」てことが専門家の間で話題になっているわけですけども。この中国の明らかな近代化の成功があるんですね。もちろん、格差の拡大とか少子化に対する懸念とかってあるんだけれども、95年段階から言えば、15年後の現在、当時想像もしなかったような近代化、あるいは市場主義化の成功を収めているわけですね。その背後に中国人のエートスが変化することがあったのかっていうと、僕はそういうことはなかったと思います。中国人のエートスはそのままにしながら、中国を近代化する工夫がなされた。

 私の12年先輩の橋爪大三郎さんと昨日話したんだけど。橋爪さんは3つファクターを挙げられておりました。たまたま中国は、香港・台湾という、そもそも西洋的なコミュニケーションの中で生き延びてきたエリアを持っているので、それをインターフェイスとして西洋社会と付き合うやり方を編み出した。あともう一つ、大量の留学生を送り出して、その3分の1ないしは4分の1が中国に帰ってくる。そのほかは頭脳流出もかなりあるんですけど。しかし、そうした留学組の人間たちを、組織の重要な場所に据えることによって、やはり彼らをインターフェイスまたはメディエーターとして、媒介者として使うということをやる。

 あともう一つ、日本の長期政権である自民党を研究することによって、中国共産党を日本における自民党と同じような機能的なポジションに整理していこうという動きもあり、簡単に言えば、インターフェイスとして機能するということですよね。僕がずっと柳田國男なんかを参照しながらずっと申し上げてきたことは、やはり日本人全体を近代化するとか、エートスを変えるということではなくて、彼らは彼らのままでよくて、しかし彼らの中から出てきたエリートが彼らを引き受け、彼らにリターンを返すために命を懸けるというシステムを作れるかどうかで。そういうシステムを今、アメリカと中国の話をしましたけど、それなりに成功してきたということが言えます。

 もちろん、それだけで危機を乗り越えられるというわけではありませんけども、日本的な危機はありません。つまりどこに大ボスいるかも分からない。大ボスだと思って捕まえてみれば、「私には権限がなかった」「今さらやめられないと思った」「空気に抗えなかった」というクソみたいなことを言う奴しかない。今も変わらない日本の状況ですよね。

 あるいは企業の幹部というと、トップはだいたい無能な奴ですね。大体2番目、3番目4、番目、5番目辺りが合議でものを決めていて。責任追求されると、合議体に空気がどうもあったらしく、「私にはいかんともしがたいと思った」とか言うわけですよ。オリンパスとかと同じですけどね。こういうクソみたいな状態。こういうクソみたいな状態ゆえに、もたらされる危機。これをを普通に招来し続ける社会。日本以外の先進国にはまずない。今の中国にもまずない。

■日本は始まってない!?

大塚: 今、「日本が終わってる」っていうふうに言われましたけど、もしかして終わっているとして、始まり損ねているところの方がずっと問題であって。つまり、こんだけ近代をやり損ねて、ずっとずるずる来ちゃって、未だに始める気がないみたいな。でもじゃあ、だったら北朝鮮みたいに独裁国家でも作ればいいし、あるいは宮台さんの仰ったように中国共産党がやっていったような、また別の近代化もあったんでしょう。

 だけれども始めることができないし、「一体自分たちがどこに向かっているか」っていうビジョンを作れないわけですよね。だから昔、柄谷行人さんと話した時に「いわば近代ってのはいわば努力目標なんだ」って言い方をしたんですけれども、努力目標としての近代すら掲げることができないまま来てしまって、「どこに向かっていくのか分からない、そこが問題なのだ」ってですね。だから、始まってないわけですよね。

 宮台さんが仰るように、アメリカの民主主義システムだって、むちゃくちゃ問題あるわけですよ。だけれども、例えば大統領選挙の時にニュースを見ていれば分かるわけですよね。美容院か何かで座ったら、前に私はヒラリーとか私は何とかって言うふうに、支持する候補のサインが掲げてあって、そんでもって髪の毛を切りながら美容師さんとお客が議論をするわけじゃないですか。ということの積み重ねで、選挙システムが動いていくんだよっていう部分だけは、何となくあっちの国にはあるんだと思う。

 日本の場合ではもうそこで空気の読み合いや、「今年は何とかさんだから」と何も言わないで決まっていくみたいな。そこの一点をとっても、まだあっちの国の方が相当問題あるし、だいたいアメリカなんて大嫌いだけど、でも民主主義システムに関しては一つそれが「努力目標なんだ」っていう自覚はかなり末端まであるわけですよね。

 民主主義が嫌いだったら嫌いで、「どういうふうな自分の頭で思考する目標を作っていけるのか」。そこのビジョンみたいなものがないままにきたんだから、始まってないんですよ。終わったんじゃなくて。そこが一番問題だと思います。
宮台: まったく仰るとおりで、日本的なエリートが育たない一つの理由は、責任概念が存在しないからで、責任をとらせないからですよね。ちらっと(コメントを)見たら、頭の悪い人は「アメリカでも粉飾決算があるじゃないか」と書いていたけれども、アメリカの場合はものすごい厳格な刑事罰が経営陣に処せられるんですね。かつてのS&L(貯蓄貸付組合)危機もそうです。この間のウォール街の危機の時には、それを政府が救済したときに、刑事罰の適用が十分でなかったっていうことも大きくあり、運動の大きな理由になっているんですけど。

 オリンパスの粉飾決算の問題で、日本人は憤って、オキュパイやってますか?誰か刑事罰で厳しく処せられていますか?だから、こういうことが問題なんですよ。つまり責任を取らせるシステムがなければ、エリートは責任を取ろうとしない。責任を取ろうとしないことは、つまりサンクション(制裁)がないので真剣に物事を考えないわけですよ。

 つまり分かりやすく言えば、火中の栗を拾った時の果実も大きくなければ、今度は失敗をしたヘマをした時の処罰もサンクションも大きくないので、かなり適当にやっていいればいいんですよ。こういうインセンティブ、モチベーションのシステムのある中、分かりやすく言えば真剣に物事を考えて、自分の頭を使って命懸けで行動するような人間なんて生まれてくるはずがないのね。そういう人間がでてくるのは、せいぜい中間管理職で終わるわけです。彼らはそうしないと上に上がれないからですよ。上に上がる、セルフプロモーションっていうことが一つの動機になって頑張りが出ますけど。上の方にいけばいくほど、「俺はもうその辺でいいかになる」と。あとはただ保身。この保身は責任概念の関係がないので、この連中は責任を取らずに、保身に走るようになれば・・・。

 だいたい日本のトップは、政治でもどこでもそうなってますけど、事実上合理的な組織的決定ができないってふうになっちゃっているわけです。この問題・システムが変わらないと、多分日本はどうにもならないわけですね。

■インターネットは「愚民化」に影響するか

大塚英志氏

司会者: 次の質問を紹介致します。福岡県20代の女性からです。「ネットは、呪いの言葉で溢れているという評論もあったように、2ちゃんねるやmixiを始め、ネットが愚民化を助長しているように思います。その一方で、民意を組み上げる『一般意志2.0』だという評価もあったようですが、インターネットは反愚民化に役立つと思いますか?お二人のネットの可能性についての意見が知りたいです」

大塚: 近代的な個人の前提は、自分の言葉を持っていて、それを発信して、なおかつ議論ができるパブリックな場が保証されているってことだったわけですね。だけれども実際にはメディアにモノを書ける人間はついこの間まで限定されていたわけです、だから、そういう意味で近代的な個人を作る前提みたいな事は理念としてはあったんだけど、ツールとしてのインフラは整ってこなかったわけです。でも今は本当に何かを言おうと思えば、各自が自分で言葉を発信できるし、それこそニコニコチャンネルで勝手に何かを言うことも可能だし・・・。というふうに言葉を発信するツールも、議論をしていくツールも出来上がって、いわば"インフラとしての近代"はネットが可能にしたんだと思います。

 ただ、もう一つそこで重要になってくるのは、それが柳田國男の問題なんだけど、「言葉をどういうふうに作っていくのか」。その言葉は観察し記録する言葉であって、それから議論しコミュニケーションし、最終的にそこにある合意という公共性を作っていく言葉。そういったものを作っていくための、いわば言葉の技術や言語的なスキルの問題。そちらの方がインターネットはまだ提供できてないんだろうなという気がして。ネットに出来上がっている世論みたいなことを、いわば一つの空気として、それが「民意なんだ」と。それは多分違う形の何かなんでしょうね。民主主義ではなくてね。それを新しい民主主義と呼んで、その空気にしたがって生きていくだったならば、魚の群れとしてこの国が生きていくっていう選択で、それはまたやっていったら、中国とは違う何かなるのかもしれないけど。僕はそういうのは嫌だなと思いますけどね。

宮台: 僕は、インターネットについては、一律に可能性があるともないとも言えない立場ですね。まあ原発の事故以降のコミュニケーションをつぶさに観察するに、マスメディアがあまりにも出鱈目であったために、あるいは政府や東電があまりにも出鱈目であったために、多くの人はインターネットを通じて適切な情報を得ようとしたんですね。その時に、いろんな情報を自分で模索して、自分で信頼できる奴にコネクトしながら「実際の所はどうなんだろう」と一生懸命に、あれかこれかではない本当の所を模索しようとする人間が一方にいたかと思えば、いわゆる脱原発カルトになっていく人たちもいたり。あるいは脱原発カルト批判カルトになっていく人もいたりするわけですよね。

 こうなると、もうそれは見るからに北田暁大(社会学者)さんの言う「繋がりの社会性」と言うか。簡単に言えば、議論の中身ではなくて陣営帰属がまず決まって、そのあとの誹謗中傷合戦という田舎の田吾作の作法にインしてしまっているので、話にならないということですよね。脱原発問題についてもそういうふうな、ある種の振幅・レンジの幅が見られるわけですよね。似たようなことは、いろんなところにあるわけですけど。

 例えば以前、文京区・音羽の幼児殺害事件が起こった時に、僕はそのあとインターネットに多くの人たちは匿名の危険・匿名性の危険を見出すけれども、そうではなく、実は「疑心暗鬼の危険の方が大きいんだ」とずっと申し上げてきたんですね。つまりオフラインと言うか、面と向かってのコミュニケーションとは別に「裏で悪口流しているじゃないか」とか「裏であるいは自分だけ連絡を回さないでハブにしようとしているのでは」という疑心暗鬼が、まず子供たちに広がった。あっという間に親に広がった。今から10年ぐらい、あるいはそれ以上前の段階なんですね。

 そういう意味で言えば、例えば僕に言わせると、オフラインにおける信頼醸成のノウハウが分からない人間たちが、インターネットにハマってしまうがために、疑心暗鬼になってしまうんですね。

 その意味で言えば、インターネットがどうのこうのよりも、我々のコミュニケーションの作法の稚拙化が背景にあって、インターネットによる疑心暗鬼化で、ますますインターネットを頼るみたいなことになっていくっていうね。本当に愚昧な悪循環が起きているような気がしますよね。そういう意味では、インターネットのアーキテクチャや機能に問題を帰属させるような態度そのものが、頭の悪さ、あるいは日本的な頭の悪さの現れだというふうに思いますよね。

■「世代論に還元してもしょうがない」

司会: それでは次の質問です。千葉県20代の女性からです。「お二人人は教育に関わっていますが、世代間で違いを感じますか?若者のほうが魚の群れが多いと感じますか?」

宮台: どうですか?

大塚: こういうことを言うと、すごく傲慢だと思われるかもしれないけど。先生になってみて、わりと教育の教育可能性みたいな。つまり18歳で大学に入ってきますよね。でも宮台さんのいる大学と違って、うちなんて田舎の4流の美大ですから、本当に高校の延長みたいな感じなんですよね。もう大学教授なんて、ただの担任の先生ですよね。

 でも、その分だけ4年間見ていると、「あ、ちゃんと変えられるんだな」というふうに思うときもある。同時にちょっと目を離したり、ろくでもない教員なんかに担当されると、あっという間にだめになるみたいなこともリアルに起きます。

宮台: (笑)

大塚: だから、世代の問題ではない気がします。むしろ教える側の問題で、こんなふうに劇的に変わるし、こんなふうに劇的にだめになるんだみたいな。その繰り返しみたいな感じですよね。だから世代によって変わっていくみたいな。例えば100年のスパンでは、もしかしたら少し何か変わるのかもしれないけど。それこそ柳田が「魚の群れだ」とキレたのは昭和の初頭の話ですからね。ずっと魚の群れなわけですから。今の子たちが急に魚の群れなったわけではないよね。

 だから、そういうふうに今の子たちがどう変わっていくっていうのはないですね。さっき言ったように、(東日本大)震災のせいかどうか知らないけど、震災を経たある瞬間に、17歳の子たちの内面がある方向で綺麗に変わったみたいな。そのふうに変わっていくんですよ、多分。人の心は良くも悪くも簡単に。だから、そういう意味で、世代論みたいなものに還元してもしょうがないんじゃないのかなと気が、当たり前だけどしますよね。

■日本の教育の問題点

宮台: 今の大塚さんの意見に全面的に賛成なので、少し補足をさせていただく形にしますね。

 僕自身の経験から言っても、今の若い学生さんたちは、上世代が言う意味では経験値が低いところがあるので、実は経験をいくらでも書き込めるっていう面があります。なので、経験ベースでの様々な仕掛けを作っていくと、特にコミュニケーションの下手だって自覚しているような男の子達も、だいたい1年ぐらいあれば見違えるようになります。この場合には、週1回のゼミと年3回のゼミ合宿があるっていうふうなシステムなんですけれどもね。例えば、「自分は何となく無理です」と言ってる男の子も、1年あれば、まったく違った自意識の状態に持っていくことは本当に簡単なことです。

 ですから、そういう意味で言えば、僕らも昔そうだったように、やはり人から教わる。人は親だったり、兄弟だったり、先輩・同僚・後輩。そういうホモソーシャリティだったりいろいろあるんでしょうけど、やはり教わり、あるいは彼らに後ろ盾になってもらいながら、実践をすることを通じて変わるわけですからね。同じ事をやれば、本当に簡単に見かけも行為態度も一変するぐらいのことはあると思います。

 簡単にいえば、大塚さんや僕が、自分たちのローカルな範囲で、そうした実践によって行為態度を変えることはいくらでもできるだろうなと思いますね。しかし、それとは別に僕らの若いころとの違いは、あるいは日本以外の先進国との違いはと言ってもいいんですけど、日本ほど全体が見渡しにくいと思っている若い人たちもいない。

 藤原和博さんという杉並区和田中の民間校長で有名になった人と一緒に、ちょっと前に『人生の教科書[よのなか]』という擬似教科書を出している。この擬似教科書の見本はスウェーデンでの社会教科書なんですね。スウェーデンだけじゃなくて、各国の社会科の教科書を見てみると、やはり素晴らしいと思うのは、例えば社会保障制度について、積立型と賦課型の違いとまったくなくて、まず「家族とは何か」「地域社会とは何か」「教会とは何か」「企業とは何か」あるいは「ボランティア団体NGOとは何か」あるいは「カルトとは何か」っていうふうに、社会の曲がり角を全体として説明して、最後に「だから行政はこのような役割を担っているのであり、皆さんは行政に対してこういう関わりをしなければ社会は回らない」と。だいたいそういう作りなんです。

 日本のように社会制度を説明して、社会を説明したかのように、教育したつもりになっている国は日本以外には今ないです。韓国も少し前までそうでしたけど、韓国は今まったく変わった教育のシステムになってますよね。なので、多くの日本以外の国では「日本の国は今こうなっている」とか、「グローバル化によって今世界はこうなっている」ということを前提としたコミュニケーションができるんですよ。

 でも日本人は、そういう意味でちゃんとした教育を受けてないので、全体性についてのイメージを持つことがしにくくなっている。特に若い世代ではそうなんですね。上の世代ではまだそういうことができた経験的記憶があるんですけど。そうすると、今全体について言及するタイプのコミュニケーションをすると、「何かうざいこと言ってる奴がいるよ」「何かわからないことを言っているからお前ダメ」みたいな感じで。あるいは「こいつは痛い」とか「うざい」とか評価を受けやすいんですよね。

 それが分かっているから、ほかの国であれば、あるいは日本でも少し前であれば当たり前に存在した、国家や世界についての話や宗教についての話、倫理についての話がまったくできなくなっているんですね。これはメンタリティの変化に見えるけど、僕に言わせると、「何がリスクなのか」ってことに関する見込み、簡単に言うと期待値が変わってしまったんですね。だから、これも僕はさっき申し上げたのですけど、教育の変更とか、様々なメディアの変更によって、チェンジ・シフトによって可能な部分がかなりあるだろうと思っています。

■「圧倒的な教師がいない」

大塚: 宮台さんの教科書を見たときに思い出したのは、柳田國男が社会科の教科書を戦後に作ろうとするわけですね。そのときに彼は要するに、今とここから始めて、例えば子供たちが最初にコミットする社会が学校なわけですよね。家から学校、それでどんどん変わっていって最終的に世界に行く。

 あと時間の認識も空間から始めるわけですよね。街中を見ていくと古い建物と新しい建物がある。当たり前なんだけど、景観の中にいわば重層的に時間が埋まっていて、そのことを発見していき、そして段々と時間軸を作っていくみたいな。そういうふうに世界認識の仕方みたいなことを、多分彼は社会科の教科書で教えたかったわけです。

 ただ、そういうふうな社会科の教科書自体が戦後の日本では、単に受験に使えないという理由で、柳田國男の教科書は敗北するんですけどね。そういう形で世界認識の方法みたいなことを、学校・教育が教えられなかった。多分、そこと関わってくるような問題だし。いずれにせよ、さっきも言ったけど、カリキュラムの作り方によって、どうとでも変えていけるなと思います。

 あともう一つ、若い人が不幸なのは、宮台さんはともかく僕が大学の先生をやっている段階で、どうしようもないわけですよね。冗談ではなくて、やっぱり自分の先生、例えば千葉徳爾という化物みたい民俗学者いたが、彼が持っていた圧倒的な教養の幅を見ると、一生追いつけないと思うわけですよ。

 彼の博士論文は(1メートルくらいの高さを手で示しながら)これぐらいの高さなんですよ。続編を書いていって、多分本人以外誰も読んでないみたいな。だけども、それは千葉徳爾の研究のほんの一部でみたいな。しかも千葉徳爾が敵わなかった先生に柳田國男がいてみたいな。そんなふうに宮台さんも、大学の中にいた圧倒的な先生に恵まれた。多分、僕や宮台先生が幸福だったのは、そういうものにギリギリ触れた最後の世代だったじゃないですか。

宮台: うん。

大塚: 恐らくもう若い人達は、そういう先生のいたこともピント来ないし、その凄さみたいなことも分からないみたいな。その代わりに僕なんかが先生をやらないといけないことが、うちの学校の子供達にとってかわいそうだなと冗談ではなく、思いますね。圧倒的な教師がいないんだよなってね。

■"時間感覚"を養うということ

大塚英志氏

宮台: なるほど。(今の話を)ちょっと補足してから次の質問でいいですか?
 日本は、その意味で言うと、やっぱり非常に教育に負荷がかかっているので、教育における経験が非常に重要になっていると思うんですよね。ところが、僕が中国やヨーロッパを見ていて思うのは、やはり宗教のほかにも、大塚さんが仰った時間の感覚について、様々な陶冶の機会があるんですね。

 例えば、『創世記』の最後の方に、ヤコブとヨセフのエピソードがあって、これはキリスト教では非常に重要なエピソードなんですよね。詳しい話はしませんが、そのヤコブという弟の台詞で「神は悪を善に変える」という言葉があるんですね。これは現ローマ教皇のベネディクト16世ことヨセフ・ラッツインガーが非常に重要視している言葉なんです。なぜかと言うと、キリスト教は繰り返し公会議を通じて、「悪い時代を支配する悪い神と、良い時代を支配する良い神がある」という考えを否定してきた。何ゆえかと言うとね、これは時間感覚の根源に関わる問題だから。

 例えば、ナチスがあって今のドイツがあるんですね。あるいはブッシュ、ウォーカー・ブッシュ(大統領)がいて、オバマ(大統領)がいるんですね。あるいは日本の戦前があって、あるいは戦中の行為があって戦後民主主義の日本があるんですね。過去と現在を切り離してしまえば、残念ながら、まあちょっとヘンゲル的な問題意識で言えば、過去が現在にどう生きているかまったく分からなくなってしまうんですね。

 ですから、『旧約(聖書)』の時代を支配したヤハウェというギリシャのゼウスに似たような恐怖と不安の神に対して、『新約(聖書)』の神であるイエス、すなわち愛の神が出ていたという議論は絶対に受け入れることができない。キリスト教がグノーシズム(知性主義)をどうして受け入れないのかと言うと「ヤハウェはエデンの園の悪らつな番人だ」という議論、これは「悪の時代を支配する悪の神」という議論につながる議論であって、こういう議論を多くのヨーロッパのインテリたちは、宗教のコミュニケーションを通じて、自分が信者であろうがなかろうが触れてきているんですよね。

 中国だったら、例えば歴史がそうなんですね。『三国志』なんか典型ですけれども、「善人ほど早死にする」という台詞がありますよね。あるいは「人間万事塞翁馬」って言葉がありますけれど、何がいいか悪いかなんてその時にはわからないんです。例えば、僕たちにとっては目の前に展開する戦争の悲劇や震災の悲劇があります。しかし、10、50年した時に「あれがあるから今があるんだ」と言える時が必ずありうる。つまり、悪が善を変える、神が悪を善に変える。その場合、特にキリスト教であれば人を通じて必ず変えるんですね。だから、悪の神が人を通じて悪を善に変える。その営みに関わろうというような時間感覚が出てきたりする。

 でも日本の場合、学校の外で「時間感覚についての適正な理解はこうだ」と教わるような機会ってまったくないんですね。今は、ですよ。昔は僕、違ったと思う。昔はなぜ素晴らしい先生がたくさんいたのか。素晴らしい民俗学者がたくさんいたのか。それは明らかです。昔は学校の外には時間感覚について学ぶ機会がいくらでもあった。それは農村調査、あるいは僕自身がやった都市の調査もそうです。そのリサーチを通じて、やっぱり時間感覚を学ぶんですよ。そうしたことが今はないですね。

大塚: そう。だからあえてフィールドワークって、僕たちが千葉徳爾に教わったことは、彼は学生を一人ひょいと連れて、ふらっと彼は調査旅行とかに出かけるわけですよ。新入生は千葉の後をついてカバンを持って、優秀な学生は遠くまでフィールドワークに行くし、僕みたいなダメな奴は近隣の村で済まされるんだけど。するとそこで彼は何をやるかって言ったら、屋根を指して「村の農家のあの屋根は、なぜあのような形をしているのか」とか「この道はなぜ3本筋になっているか」って聞くわけですよ。

 当然答えられませんよね。そうすると千葉は答えるわけなんですよ。「こうだ」って。その繰り返し繰り返し繰り返しですね。その具体的な風景みたいなものの中に、歴史や文化が記録されていて、「なぜお前はそれが読み取れないのか」って叱られるわけなんですね。そんなもん分かるわけないんですね。でも、そうやって読まなければいけないんだとか、あと答えはわからなくても千葉の指すポイントが分かってくるわけなんですよ。むやみに指しているわけじゃなくて、ある歴史とか文化の結節点というか、特異点みたいなものがあって、それを千葉が指さすんですよ。そこがなんとなく分かったときに少しだけ、ものが考えられるようになった気がするんですよね。

 それが、柳田の本読んだら、柳田がそれを自分の弟子達にやっていたんですね。それがさっき言った柳田の教科書に反映しているだろうけども。例えば知識の体系だけじゃなくて、そういう「ものの教え方」ですよね。それはもう僕は真似しても上手くできないんだけれども、そういうことができた教師たちがかつていたし、そういう教師なんかを柳田が作りたかったんだろうなって気がしますよね。

■「時間感覚を養う経験を社会が与えていない」

宮台: 柳田で思いますよね。あの戦間期の今和次郎という考現学の創始者。

大塚: はいはい。ええ。

宮台: やっぱり同じことを、現代観察についてやろうとしていたんですよ。

大塚: そうですね。同じですね。

宮台: 表層的な戯れにすぎない都市生活に見えるけれど、実際に見てみると、すべてに理由があるんですよね。あるいは我々の、従来から反復してきた行動パターンの残響が必ず見えるんですよね。

 それを明らかにするのが考現学だとするとね。今、特に2000年期に入ってから出てきている、名前は挙げませんけれど若者論の多くは、今和次郎的考現学がベースにある民族学的な素養からすると、単なる雑誌の「最近の若者のコミュニケーションとはこうだ」という議論と同じで、実際はどうゆう全体的な構造があるがゆえに、こうゆう部分的な構造があり、それゆえにそれ前提としてそうゆうコミュニケーションをせざるを得ないのかという回路がまったく描かれていないんですね。

 だから僕は今の30代が書いた若者論の多くは、そのほとんどは「すべてクソ」だと考えていますよね。でもそれは彼らが悪いんじゃなくて、そういう時間感覚を養うような経験的な基礎を、この社会の方が与えてくれていない。言い換えれば、表相と深相をなんとか見分けて、区分けて、腑分けして、自分自身の血肉としていくような、そういう経験を与えてくれるようチャンスが、今この世界にはないんですね。それはないと言ってもしょうがないんだけれども、それがない状況にあなた方は生きていて、例えば50年前や40年前はそうではなかった。だとすれば、「何が代替的な機能的な等価物になりうるのか」という発想の仕方が僕は大事だと思います。

■「絶望から出発することが大事」

宮台真司氏

司会者: はい、ありがとうございます。それでは最後の質問です。神奈川県の30代の男性からです。「お話楽しく拝見しました。丸山眞男の言葉に『大日本帝国の実在よりは、戦後民主主義の虚妄に賭ける』というものがありましたが、お二人の話を聞くと、共同体自治やカリキュラムという目線で近代化を進めるべきということなのでしょうか?今日のお話だとなんだか諦めたという感じも受けるのですが、諦めるべきでしょうか?それとも頑張るべきなのでしょうか?具体的にどのような努力が必要なのでしょうか?」

大塚: そんなもん自分で考えりゃいいじゃん(笑)。

宮台: 僕は、以前『絶望から出発しよう』って本を書きましたけれど、やっぱり絶望から出発することが大事ですよね。勘違いから出発するのだけ回避しなければいけないし、過剰な期待を持つがゆえに打ちひしがれるというありがちな失敗からも自由であるべきだと思いますよね。

 なので、何が現実なのかよく見て、自分ができる範囲を自分でコントロールしていくことによって、自分や自分の仲間たち、家族たち、恋人を幸せにするということでよいような気がするんですよね。そういうことが部分部分に広がって、現実的に観察可能になればロールモデルとして学ばれることがあるかも知れませんし、ないかも知れませんけれども。僕にとってはそういう広がりがあろうがなかろうが、それは僕の関心の的ではあまりないですね。

大塚: 『愚民社会』のあとがきでも最後、捨て台詞的に書いたけどもね。久しぶりに世の中について喋る本を、ついうっかり出しちゃったんだけども、元々そういうことを言うのが嫌になったのは、話した後で「私は何をすればいいんですか?」って絶対聞かれるわけですよ。

宮台: うん。

大塚: でも、それが嫌だったんですね。

宮台: (笑)

大塚: 嫌だって言うか、つまり「自分で考えろよ」って言ってるのに、「それでは私はどうすればいいんですか?」って質問が返ってくる。そうじゃないわけですよね。

 まず今の方に申し上げたいのは、失礼かもしれないけれども、そういう質問をまず自分の中で飲み込んで。もし話すとすれば、この番組を見てくださったのはありがたいんだけれども、あなたの周りに誰かそういう話をする人間はいるはずだし、見つけられるはずだし、見つからなかったら、それこそ繋がることだけはネットっていうメディアではできるんだから、そこで話し始めていけばいいんじゃないのかなって、すごく一般論だけれども思います。そういったことで、あなた自身が絶望するのかしないのかってことを、自分で考えていっていただきたいと思います。僕の答えは、そういうことになっちゃうのかな。

宮台: いいお話です。

大塚: ありがとうございます。

宮台: 大塚さんの仰った通り、僕も思います。

司会者: はい。というわけで、あの、1時間延長しまして。

宮台: え。

大塚: うわー。

司会者: 1時間弱ですね、延長してお送りしてまいりました。長い間宮台さん、大塚さんお話ありがとうございました。最後までお付き合いいただきましたユーザーの皆さんもありがとうございました。

 ニコニコ放送ではこの後も多くの言論、報道番組をお送りしています。このあと夜10時からは、ニコ生奇祭取材隊「蘇民祭 in岩手・黒石寺」を録画放送でお送りします。

大塚: この後にそれか(笑)。

司会者: それでは皆さん最後までご覧いただきありがとうございました。さよなら。

種蒔夫:長時間、ありがとうございました。トークを聞き、久しぶりにこの作品を見ていると、魚の大群の行く末は恐ろしい!と改めて感じます。

posted by 種まく旅人 at 19:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月05日

飢餓

「今の時代に飢餓死なんてありえない」と思っている人は多いでしょうが、最近のように異常な天候が続くと農産物の収量は減ります。いつか元に戻ればいいですが、その保証はありません。ほとんどの人は金さえあれば、何とかなると思っていますが、過去の記録では100両(現在価値で1000万円くらい)を首にかけて餓死した記録が残っています。金に頼るより、備蓄したり、栽培を知っている方がまだ現実的かなと思います。たとえ、食糧難が来なくても栽培を通じて自然と接するのは大事なことですし、何よりも「人間は自然とともに生きており、自然に無しには存在し得ない」ことも多少はわかると思うのです。生き方が変わる大事な体験になると思います。

ところで昨日、2017年11月15日のブログ日記「9月27日 上越市(新潟県) 8707ー8708」アドレスは以下
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/454895948.html
へのアクセスが多くありました。その内容は、その日の種蒔きの状況とともに、一つの問題提起がありました。それは

「もし現代に農薬、化学肥料、F1種がないならば、江戸時代のように餓死者を出すであろう」という農業試験場の長峰さんの主張です。その時に、何も返答ができなかった私は飢饉と餓死の関係について調べてみました。それが以下です。

11月16・18・21・23日の4日間に渡り「飢饉 1〜4」の文章を載せました。結論としては、飢饉は自然災害のせいばかりでなく政策的な失敗もあり、餓死のほとんどは人災だということです。詳しくは以下をご覧ください。

飢饉1飢餓死の状況
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/454920550.html
飢饉2飢餓死の原因
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/454959151.html
飢饉3備蓄
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/455026719.html
飢饉4備蓄が尽きたら
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/455081638.html



posted by 種まく旅人 at 10:50| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月04日

地中の虫

新たな替え歌です。

中島みゆきの「地上の星」を聴きながら、「地中の虫」を歌ってみましょう。



地中の虫

作詞 種蒔夫
作曲 中島みゆき


風の中の花粉
土の中のミミズ
みんな何処へ行った 見送られることもなく
田んぼの中のカエル
畑の中の蝶々
みんな何処へ行った 見守られることもなく
地中にある生を誰も覚えていない
人はスマホばかり見てる
モグラよ深い土から教えてよ地中の虫を
モグラよ地中の虫は今何処にあるのだろう


街灯の蛾たち
窓ガラスのヤモリ
みんな何処へ行った 見守られることもなく
名立たるものを追って 輝くカネを追って
人はドジばかり踏む
モグラよ深い土から教えてよ 地中の虫を
モグラよ地中の虫は今何処にあるのだろう


おいしいものを追って 添加物を無視して
人は崩壊に進む
精液の中の精子
卵巣の中の卵子
みんな何処へ行った 省みられることもなく
精子よ玉の中から教えてよ 永遠の食を
卵子よ 永遠の食は今何処にあるのだろう


posted by 種まく旅人 at 21:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする