2017年12月04日

再出発

しばらくご無沙汰してましたが、いよいよ再び種蒔きの旅に出ます。この1ヶ月は肉体労働的なこともしていたのですが、そのお陰で発見と進展がありました。

旅の間、食の量が減って来て以前のような食欲が無いなあと思っていたのですが、やっぱり労働不足だとわかりました。筋肉を使う生活になると、食べる量が増えました。当たり前かもしれませんが、実感しました。「あれ、こんなに食べれる!」とびっくりでした。

机上の仕事ばかりしている人には、何でもいいので肉体労働(筋肉を使うこと)薦めます。また、手を使う作業は脳を活性化させます。米作りしていたときも感じましたが、とにかく肉体労働は心身ともに健康になります。人間にとって大事なことだと思います。時代とともに便利なものが増え、面倒なことが減り、そして肉体労働が減るのは、人間の心身にとってどうかなといつも思います。きっと、ロボットは人間を退化させます。最後には生きているだけで、やることがなくなります。

「肉体労働をすると腹が減る」が発見ですが、進展は手を使うことで、日に日に血が騒ぎ出したことです。「血が騒ぐ」とは、元々の私自身が現れだしたのです。私はやっぱり作ることが好きなんですね。手を使うことで、手を使うことが好きなんだと自覚されられました。そうなると同時に、いろいろなアイデアが湧いてきて、創作物を作りたくなったのです。多分、種蒔きが終わったら、再び何かを作り出すと思います。できれば小規模に田んぼや畑をやりつつですが、手作りのものを作りたいと思います。この数年の体験と思いを生かして、素材はやっぱり植物関係です。米、もみ、わら、竹、葉、豆などタネ類などなど。

それでは、9122番から再度出発です。
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2017年11月28日

山澤さんとの会話

9月2日と4日にお会いした山澤さんとの会話(4時間のうちの2時間分)をまとめました。方言がわからず四苦八苦してやっと整理できましたが、わからない部分は割愛して、理解できた部分だけを紹介します。
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問い:山沢さんの夢は

答え:「タネとして残せるエネルギーのある植物を作ること」
つまり、在来種、固定種の栽培をすること。

問い:何故か。

答え:(種蒔夫)一例として「じゃがいも飢饉」という言葉が出ました。その場では聞き流しましたが、初めて聞く言葉だったので、調べてみました。これは、先日のブログ日記「飢饉2」でも、取り上げましたが、ジャガイモ飢饉に関わるジャガイモ栽培の問題点に関して転載します。ウイキペディアより。

ジャガイモは通常、前年の塊茎を植えるという無性生殖による栽培法を用いるが、当時のヨーロッパでは収量の多い品種に偏って栽培されており、遺伝的多様性がほとんどなかった。そのため、菌の感染に耐え得るジャガイモがなく、菌の感染がそれまでにないほど広がった。ジャガイモが主食作物であった原産地のアンデス地方では、ひとつの畑にいくつもの品種を混ぜて栽培する習慣が伝統的に存在し、これが特定の病原菌(レース)の蔓延による飢饉を防いでいた。また現代の大規模農業でも収量の多い品種に偏って栽培される傾向は強いが、種芋の段階で防疫対策が取られているほか、品種改良によって耐病性を獲得させている。(転載終わり)

旅をしていて、がっかりするのは北海道から九州までスーパーの野菜類がほとんど同じ種類であることです。耐病性のある種類かもしれませんが、もし将来それに対抗しうる病気が流行れば、日本全国に蔓延する可能性があるのです。そういうことを防ぐために、種が取れる在来種を複数の種類育てておく必要があるわけです。

ジャガイモの話になり「ジャガイモには種がある」と聞いてびっくりしました。調べてみると、確かに実がなり種が採れるようです。しかも、ナス科ナス属。
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問い:山澤さんが使う肥料は?

答え:鳥の糞を使おうと思ったら、鶏は家畜法でワクチンを打つ義務があると知り、断念。スズメは売っているところがない。それで昔エジプトでも使っていたという鳩の糞にした。フランスからオスを、ベルギーからメスを合計130羽購入し、今では4000羽に。鳩専用の小屋を三棟建て、それ以外にも1億数千万かかったが、鳩はレストランに1羽5万円で売れる。

問い:堆肥の量は?

答え:収穫の30%を堆肥にして畑に返さないと連作障害を起こす。

苗作りの土は?

答え:一番いい土は山の土(表土)。それを火入れ(山形弁でへえれ。大きな鍋で焼く)して使用する。

問い:水は?

井戸を掘り、無菌の地下水を使っている。井戸が掘れなければ、雨水を使うと良い。
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問い:害虫対策は?

答え:アブラムシを増やし、てんとう虫を呼び寄せる。てんとう虫が増えれば、アブラムシは減る。3年はかかるが、それで虫の害は防げる。てんとう虫は全てのアブラムシを食べることはなく、必ず2割残しておく。後先を考えずに、全部食べ尽くすのは人間だけである。
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問い:どれくらいの在来種を育てていますか?

答え:今現在、600種類の在来種を育てているが、目標は1000種類。
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問い:日本各地の作物全てがここで育つ理由は?

答え:水、温度、風に配慮すれば、どこでもどんな種類でも育てることができる。

問い:化学肥料について

答え:微生物が分解する過程を人間の文明が削除しただけ。化学肥料を使っても植物は困らないが、土壌の多様性がなくなる。アメリカの土地は劣化している。そのために、今後水耕栽培が主流になるだろう。

山澤さんの野菜だけのレストラン「土遊農」の一皿
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問い:これからの農業は?

答え:50年後、ディズニーランド化するだろう。大都会の建物の2、3階以上は、法律の規制で、ガラスハウスになる。海抜の低いところでは米を作り、半径200mくらいのところで全ての食料が得られる。

また、植物に1日を数日に感じさせるようにして、光合成を短期に行えば、早く生産できる。(山澤さんは実験済み)

種蒔夫:これらの答えには、どうして?どうやって?とさらなる問いが生まれますが、ここで実際に見て、実行して知るしかないなあと思いました。興味のある方は、誰でも受け入れるそうですから、行ってみてはどうでしょう。
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山澤さんにも何種類かのタネを差し上げ、山澤さんからは100年後も芽を出す蕎麦の種を頂きました。開封するとそれだけ寿命が縮まるので、瓶を開けないように言われました。開封と同時に、希望者にお分けします。一人数粒ずつですが、希望者は以下へ。
daiki8822@yahoo.co.jp

山澤さんとの出会いの日のブログ日記
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/454263648.html

山澤さんのインタビュー記事
https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/dango07


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2017年11月25日

五郎八はボルトより速いか?

久しぶりに五郎八報告を。
毎年冬になると痩せ気味になりますが、それでも寒い浜辺でも元気な五郎八。
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身体が火照ってくると(冷たかろうに、、)水に浸かります。おまけに海水を飲みます!放すときだけ口輪をしてますが、噛み付くからではなく、腐ったものでも食べ物と思えば何でも食べてしまうので、下痢気味になり痩せてしまうからです。口輪をしてからは胃腸の調子はすこぶるいいです。
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五郎八の筋肉質の体を見て「速そうだねえ!」とときどき言われるので「五郎八はボルトより速いです」と、つい自慢げに言ってしまいますが、たまたま犬種別にボルトと速さを競うビデオを見つけました。


残念ながら、ドーベルマンが意外と遅くてがっかりしましたが、ビデオのドーベルマンはどう見てもヨタヨタした感じがします。犬種別と同時に年齢別も考慮しないと正確じゃないですね。ちなみにビデオのドーベルマンは8歳。五郎八は5歳なので、人間で言えば24歳(1年で約8歳の差として)の差があります。

まあ、どうでもいいことなんですが、毎日五郎八の足の速さには感動してしまうからなんです。広いところに放すと、あっという間に点になります。
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犬好きな方へ:カテゴリー「五郎八物語」は以下です。
http://happyhillcontest.seesaa.net/category/24917983-1.html



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2017年11月23日

飢饉 4

さて、今日は備蓄したものさえなくなったらどうするか。ごく稀に日本人でも餓死する人がアパートで見つかったりしますが、今の日本ではアフリカ諸国のような餓死はあり得ないことです。しかし、日本では実際にはどういうふうになるのか、どうするのか、考えてみました。

1、サバイバル生活

私の経験から話しますと、福島原発事故の後に原発に反対して電気料金を払わないことがありました。島根県ですから、中国電力(島根原発)に対してですが、その後電気を止められてしまいました。3ヶ月くらい電気のない生活を送ったときに、飢餓というレベルではないですが、食べ物に困った経験があります。と言っても、おかずだけです。

春から夏にかけてでしたから、一番困ったのは冷蔵庫でした。食べ物が保存できません。遠いスーパーで買い物して1、2週間保存しておく生活をしていたので、それができなくなりました。毎日スーパーに行くには遠すぎます。

ただ、米は作っていたので十分にありました。スパゲティ等麺類もありました。穀物には困らなかったのです。しかし、穀物ばかり食べるのも難儀なことで、どうしておかずを得るか?が問題でした。

無論、他の作物も作っていましたが、自分が好きな自然薯や落花生が主だったので、まだ土の中。しかも、それらも穀物みたいなもの。他には十分な野菜がありませんでした。そこで、家の周辺を歩いてみました。田んぼ、畑、山、、、、。まず、田んぼの水路にあったのがセリでした。それが50センチの幅で数十mありました。それが主なおかずになりました。

山の中に入ると、、、タケノコ、フキ、フキノトウ、ミツバ、タラノメ、ゼンマイ、コシアブラ、コゴミ、ノビル、ワラビ、タンポポ、ヨモギ、などなど、人からも教えてもらったのですが、食材が豊富にあることを知りました。調理方法を工夫すれば料理数も増えます。苦肉の食料品とはいえ、都会じゃ贅沢な食材です。

肉魚はありませんが、イノシシ被害が多いところでしたから、罠を仕掛けて動物も獲ることも不可能ではありませんでした。無論、湧き水は出ていますし、「水も食もあるのは山の中だ」とその時に実感しました。

というわけで、私としては、究極食と水に困ったら「山に行こう」と思っています。また、山の中がいいのは、精神性が高まることです。周りが全て自然ですから、当然のことですが、町中にいるのとは異なった精神性が生まれます。五感も磨かれて敏感になります。特に物音にはとても敏感になります。ちょっとした物音に動物の気配を感じて、危機感を抱かざるを得ないからです。また、安全を確かめるための味覚や臭覚も磨かれます。つまり、自分の身の安全のための五感が働くのです。それに比べれば、町中はあまりに安全すぎて、退屈なところです。ただ、いざとなれば(災害時とか、戦争とか)都会が一番危険ですけど。

山の中でも電波が届きにくいところであれば、ネットや電話が使えなかったりするので、そういう現代文明から隔離されることで、さらに人間的、動物的になっていきます。それが怖い人もいるでしょうけど、そもそも人間とは何か?ということに直面することにもなります。

山の中の生活といえば、終戦を知らないまま、グアム島に28年間も潜伏し、奇跡的な生還を果たした元日本兵・横井庄一さんがいます。調べてみたら、記念館があり、当時生活していた穴も実物大模型で展示してあります。興味のある方は以下です。サバイバル生活には参考になりそうです。

横井庄一記念館
住所 :愛知県名古屋市中川区冨田町千音寺稲屋4175
時間 :10:00〜16:30
開館日:日曜日のみ開館

網走刑務所からの脱獄犯、白鳥由栄も寒い北海道の山中で生活していました。検索したら、以下のようにありました。

「白鳥は、脱走してから、2年間も山中(廃坑跡)で生き延びました。2年間も北海道の山中で生き延びることができた理由は、火が確保できたから(北海道は寒い!)ですが、これはもちろん近隣の農家から種火を盗んだ。(さすが盗人!)そして食糧は、やはり畑から盗んだりしつつも、その大半は野生の植物をとって食べたそうです。しかし野菜ばかりでは、栄養失調にもなってしまう。(なりません!)では白鳥がどうやって魚などを捕ったか。こう証言しています。『熊が沢の岩をどうして魚や蟹を捕るのを見て、それを真似て、熊が遠ざかっていくのを確かめてから、魚や蟹を捕って、食糧のたしにしていたんだ。』」

こうして動物から学ぶこともあるわけですが、江戸時代に飢餓死した人たちもこういう生活(山菜や野生動物を食べる)はできなかったのか?調べてみました。以下のような記述がありました。

江戸時代の農民は勝手に自分の土地を離れることが出来なかったし、また海が近くても飢饉が起きると秋から翌年の春までつづく東北では、海が荒れて漁師でさえも食う魚に困りました。

天候不順による農作物不作が原因の飢饉の場合、山菜などの植物だって天候不順の影響を受けます。

もともと稲は熱帯性の植物です。ですから東北地方のような寒冷地での農作はもともと適していませんでした。しかも昔の稲は病気や害虫にもかなり弱かったということです。これが改善され東北がコメどころとなるのは、ササニシキやコシヒカリが開発され寒さにも病虫害にも強い品種が出てきてからです。ですから寒いか、そうでないかはかなり重要だったと思います。

九州でも薩摩(現在の鹿児島)のほうは桜島などの火山灰で、稲作には適していませんでしたが、甘藷(サツマイモ)の耕作が盛んで、これは救荒作物とされているものでもあり、気候の変動にも強いようです。(転載終わり)

確かに当時の飢饉は東北地方に多いです。寒いところでは植物が育ちにくいので、食糧難になりやすいでしょう。南太平洋の方で、飢餓の話は聞いたことがありません。何もしなくても、豊富に果物が採れます。南を目指すのも一つの手ですね。横井さんも北の地だったら、死んでいたかもしれません。しかし、熱いアフリカで餓死が多いのはどういうことでしょう。土地が荒れ果てているのか、栽培をしないのか、するのが面倒なのか、、、、?

私の田舎で聞いた話ですが、戦時中に食料に困った漁村の人が農村に食料を求めてきたことがあった時に、農村の人は野草を取っていくことさえ嫌って、追っ払ったそうです。飢餓に苦しむとお互いに優しくはなれないのかもしれません。

もし仮に全国民が食糧危機になり、自然の中に帰ったとしたら、自然の中にはどれほどの許容力があるのか。調べたものをまとめてみます。

2、人口扶養力

狩猟採集による人口扶養力は0.1人/㎢程度とされており,条件が良いところでは0.2人/㎢とされています。日本列島は海に囲まれているため豊富な魚介類の利用が可能でしたが、それでも0.1人/㎢を超えることはありませんでした。

つまり、一人が食べて行くのに必要な面積は5㎢〜10㎢です。つまり一人につき、広めの野球場の5〜10倍くらいの面積です。山ならピラミッド(世界一のギザ)1個弱くらい。かなり大きな面積が必要です。この数値から住める人口を計算すると以下です。

東京都    2200㎢ で    700人〜  1000人
北海道   84000㎢ で  28000人〜 42000人
日本全体 378000㎢ で 126000人〜189000人

推定ですが縄文時代の平均人口は15万人、縄文後期の推定人口26万人は縄文時代を通じて最大値ですから、これらの数値は妥当なところですが、想像以上に少ないのです。それを思うと稲作がいかに大事か、改めて思い知らされます。

3、車での生活

私は車に寝泊まりして旅をしているのですが、車の中には生活に必要なすべてのものがあるので、いざとなったらとても心強いです。移動できる家に住んでいるようなものです。常に車の中に必需品を載せておくか、あるいは押入れの一部に生活必需品を一まとめにしておいて、いざとなればそれを車に運び込めば、すぐに安全なところへ移動できます。飢餓ばかりでなく、今はどこで何が起きてもおかしく無い時代ですから、特に家庭を持つ人はこういう準備はしておいてもいいと思います。

こんなサバイバルな時代にはならないことを祈っていますが、いざとなった時にはこういう心がけでいれば、現実に起こった時には多少は余裕が持てます。

4、食べない生活

さらに、付け加えると、何もなくなったら「食べない」という選択肢もあると思います。私自身の断食の経験故ですが、数年前に一週間断食を二回体験しました。一週間は水だけで生きて行ける自信があります。多分、二週間か、もしかしたら1ヶ月くらいは持つかもしれません。その間に食料品を見つければいいわけです。あるいは残り少ない食料品を最低限必要な分を食べれば、長持ちします。しかし、何よりこの体験が貴重なのは、食べ物が無くなったら、餓死するという意識が無くなったことです。食べなくても、しばらくは普通に生活できますし、逆にエネルギーが無いと思って寝ていることの方が、体の具合が悪くなることもわかりました。やりすぎない程度の普通の生活をしている方が、ずっと快適なのです。4日目以降は空腹感を脱し、非常に感覚鋭くなりますし、そういう点でも非常に貴重な体験でした。

今の時代に飢饉は起こりにくいです。それは農業が進化してどこでもたくさんの量が取れるようになったからです。しかし、世界規模の大災害があれば、すべての国に食糧危機が来ますから、輸入は難しくなりますし、国家備蓄もいつか枯渇します。自給自足は当然のことになります。

国民一人一人もある程度の備蓄はしておいた方が無難でしょう。山間部は都市にいるより食べ物がありますし、栽培も可能なので、車で移動することを考えて、車に必需品を揃えておくといいでしょう。田舎に土地家屋を持つ、あるいは田舎の親戚縁者を大事にすることは大事なことです。そして、その時こそ、お渡しする(した)種が効力を発揮します。せっせと種を蒔きましょう。



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2017年11月22日

6179番の恵さんより 栽培報告 稲刈り後

種蒔夫:「稲刈りが終わったら、稲作りは終わり」と思ったら、大間違い!それを教えてくれたのが、恵さんです。以下、恵さんからのメールと写真です。

種蒔夫さま

人生初のバケツ稲で、最高の出来、庭土バケツ稲君。

刈り取り後も、感心する程とっても美しい土面です。
それまでは庭土のことを、キレイと思ったことありませんでした。

収穫後のバケツ床について、言及しているサイトを見つけられず、
ふと、来年の出番まで、バケツ麦とか出来るのかなぁ?と、思いまして。

刈取り下手が幸いし、長く残っている根元を持って、持ち上げてみました!
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対面は、驚きと涙(>_<。)でした。なぜ涙?かは自分でも説明出来ません。

こんなにも‥沢山の根が‥、ところ狭しと育っていた‥。
たった1本の苗が作った、壮大な地下都市・ネットワーク。

血管のようにも見え、稲も私も同じなのねと。。。

これは、裏作での麦は無理ね。

そして、なぜかムショウに、どうしても、土を落として、手元に置きたい‥という思いが。

そしてようやく、好都合な時間がやってきた!11月12日、快晴風強し。

外にある洗濯機での洗濯を隠れ蓑にして?、必死で稲の根の土落とし。
急いでいるのに、なかなかうまくいかない。

始めは、根元から持ち上げバケツとの隙間から水を入れた後に対流するようゆっくり回してみました。(イメージは洗濯機)

土が落ちるにつれ、水が濃い土水となり、それ以上は落とせない飽和な感じ。
その土水は、別のバケツに移動。
バケツの中に厚手のビニール袋を二重にセットして、その中で同様に再開。但し今度は、ビニール袋の外から、手で触れたり根の奥まで対流を届かせるなど出来る。気分は、袋の中で髪の毛の泥を洗い落とす感じでした。

再度繰り返し、やっとなんとか落とせたぁ\(^^)/。
寒い風の中、鼻水たらしながら、頑張った甲斐がありました。♪\(^.^)/♪
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春、用意する時は、時間なく慌てていて、(掘り返した後に広げて一週間程陽ざしや空気風に当てはしましたが。)
ふるいもかけられず落ち着いて見ることも出来なかった。

土を落とながら、「なぜこの庭土バケツが一番出来が良かったのか。」少しわかった気がしました。

庭土は、粘土質と思っていたけれど、とても沢山の小さな砂利粒を含んでいたのです。根がしっかり抱えていて、離せないものもありした。
いただいた田土は、薄茶色粘土質で、見た目美しい細やかな粒子でしたが、なんだか呼吸出来なそうな苦しさ感じてました。

そう言えば、岩田の旦那さんが、砂利をまけと言うんだよ、と言っていたのを思い出しました。
砂利粒があることで、遊び空間も出来、呼吸も出来たり、根が伸びやかに成長出来たのでしょうか。

バケツ稲を見ていた成長期、庭土バケツは、度々、土の中から空気泡がぶくぶく出ているのを見かけました。何か生き物がいるのか?と思ったものでしたが、根が呼吸してたのですよね?

自然ってすごいですよね。
私の死後も、このハッピーヒルは育ち続け、遥か彼方、時空を超えて続いていくという壮大さを思うと、なんとも言えない気持ちになります。

6179恵

種蒔夫:私も初めて稲の根の張り具合を見たときには、隠されていた部分でこんな活動が繰り広げられていたことに本当に驚きました。逆に成長が悪い稲は根がとても貧相です。比較されるともっとわかったと思います。しかし、何故うまくいったのか観察力も立派ですね。感激度合いといい、観察力といい、恵さんは農業をするには案外向いてますね。
麦は庭先に蒔けば、土の状態にもよりますが、だいたい芽を出します。やってみてください。ただ、11月初めがよかったですけどね。
報告ありがとうございました。

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2017年11月21日

飢饉 3

さて、先日の「飢饉 2」で人為的な原因で無数の飢餓死が生まれることを紹介しました。しかし、備蓄が十分にしてあり、それが売られることもなく、国民に行き渡れば、飢饉も乗り切れそうですが、一体備蓄とはどの程度あるのか?それを調べてみました。その年により若干異なりますが、平均的には以下のようです。
 
米    = 1か月半強分=100万トン
食糧用小麦= 約2.3ヶ月分
食品用大豆= 約2週間分
飼料穀物 = 約1ヶ月分(家畜用)(さらに飼料メーカーに対し、1ヶ月分の在庫指導)
石油   = 約200日分(国家備蓄・民間備蓄)
LPガス  = 約90日分
種蒔夫:この中で特に多いのは石油です。食べ物より石油?と思いますが、以下のような理由のようです。

第二次世界大戦時、アメリカ合衆国から石油の供給を断たれ日本が窮地に立たされたことも、日本が連合国との無謀な戦争に突入してゆく原因のひとつになった。石油の残量が少ないので、人命よりも石油を大切にする状況に追い込まれ、航空機が出撃する時も、はなから死ぬことを決めた状態で、燃料を片道分しか積まず、敵の艦船などに航空機ごと突っ込むという、悲惨な特別攻撃(特攻)が行われた。戦艦大和が出動する時にも、備蓄がほとんどなく、燃料が片道分しか積まれなかった。

種蒔夫:「戦時に備えて」というのがあるのかもしれません。石油がないために戦争せざるを得なくなったとか、戦争を継続できなかった、ことなどが反省材料としてあるのでしょう。「石油に依存しない生活を目指す」という方向性もあった(政治家や企業家にはないでしょうけど)と思いますが、相手から戦争を仕掛けられたら、石油がないことで戦争はできない=負け、になるのは明らかです。戦争がないとも言えず、仕方のない選択かもしれません。

食糧に関しては1〜2ヶ月程度ですが、これで十分なのかどうか?災害等の規模によるでしょうが、これも過去の経験から、これくらいあれば足りるという計算の上でしょう。しかし、想定外はありうること(部分的な災害ー部分飢餓ーの経験はあっても、日本国全体が飢餓状態になるのはまだ未経験です)なので、十分とは言えないかもしれません。せめて1年分くらいは欲しいところです。

これに加えて、国は国民に対して最低でも3日分、できれば一週間分の食料備蓄を薦めています。農家の人は通常1年分のコメは収穫時に確保しますが、それ以外の人は、これだけ災害が多くても準備していない人が圧倒的多数だと思います。まさか、そんなことは起こるまいと思っているでしょう。今回の旅でも食料備蓄の話題はほとんどありませんでした。唯一、長野県の南木曽にシェルターを作っていた人は、シェルター下部に2、3ヶ月分くらいの穀物や麺類がありました。以下の写真はその一部。
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シェルターを作っている人のサイト内ページは以下
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/425773576.html

次回は「飢饉 4 」備蓄が尽きたら、、、について


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2017年11月18日

飢饉 2

飢饉になれば、食糧の不足によって栄養失調が続き、体調の維持が困難になって死ぬのはわかります。しかし、飢饉とは単に災害等で生産量が激減するために起こるばかりではないこと。また、昔から各国、各地域では穀物類を備蓄していますが、それでも足りなかったのか?それらに関して興味深い記録が江戸時代に飢饉に襲われたいくつかの藩にあります。

ウイキペディアより転載。

弘前藩
天明2年から年貢増徴、備荒蓄米と称する米の供出、農民が万一のために貯蔵していた米すらも強制買上などが行われ江戸への廻米をし、京阪の商人への借財の返済、藩財政の穴埋めに回したが、藩内の米は領民の一冬の必要量には足りず餓死者が続出した。藩からは秋田藩領へ逃散する者が続出し、一冬で8万人を超える死者を出した。

盛岡藩
飢饉を経験しながらなお、盛岡藩の飢饉対策はお粗末なままであった。農村に対する年貢収取が苛烈であり、それが限度を超え、農業における再生産が不可能な状態に陥っていた。結果、7万5千人を超える死者を出した。これは盛岡藩総人口30万人の4分の1に相当する。飢えた領民は野山の草木や獣畜を食べ尽し、領内各所で人肉食の記録が残されている。

仙台藩
天明元年に「買米仕法」を復活し、年貢米だけでなく上層農民の余剰米をも低価格で買い集めて江戸への廻米をし藩財政の穴埋めに回した。役人の汚職と密移出が横行し、藩内の米流通が混乱し米価格の高騰を発生させていた。天明4年には藩札(銀札)を発行し強制的に幕府正金との引き換えを計ったが藩札は暴落し、領民の困窮が進んだ。応急措置として他藩(尾張や最上など)からの米買入を行おうとしたが実現できず飢饉を拡大した。

全体的には

幕藩体制の確立とともに各地で新田開発、耕地灌漑を目指した事業が行われた。しかし行きすぎた開発は労働力不足を招き、強引に治水した河川が耕作地に近接しすぎることで、洪水を頻発させ生産量低下の原因にもなった。

備蓄米を払底し江戸への廻米に向けるなどの失政が重なった。

またコメを作物として見た場合、本来温暖な地域で生育する作物を寒冷な地域で作付けしたため、気温低下の影響を受けやすく、減作や皆無作などの危機的状況を招きやすかった。さらに栽培技術や品種改良技術も未熟であったため、安定した収穫は困難であった。

種蒔夫:模範的な藩もありました。以下ウィキペディアより。

米沢藩
1767年(明和4年)より上杉鷹山による改革が開始され、宝暦の飢饉などの経験から1774年に備荒貯蓄制度を進め、飢饉時の事前・当事・事後の対応策が執られた。中でも天明3年8月には救荒令により麦作を奨励した。同時期の近隣他藩は江戸への廻米を強行していたが、越後と酒田から11605俵(領内人口約10万人が1日2合として約90日分に相当する量)の米を買入れ領民に供出した。

白河藩

藩主松平定信は凶作が明らかになり打ち壊しなどの事態が起き始めると、余裕のあった分領の越後から米を取り寄せ、また会津藩や江戸、大坂から米、雑穀などを買い集めた。藩内の庄屋や豪農などからも寄付を募り、領民に配給した。定信は農民に開墾を奨励するなど重農主義を取り、町民に対しては自らも質素倹約を説いた。藩を挙げての対策が功を奏し、領民から餓死者は一人とも出さなかったとの言い伝えが残っている。

種蒔夫:他のサイトからも、同じような指摘があります。
http://www.edojidai.info/kurashi/tennmei-daikikinn.html によれば。

東北地方で多くの餓死者を出したのは、天災だけが理由ではなかったようです。東北地方の諸藩は、財政を維持するために大坂や江戸に米をどんどん廻していました。その結果、備蓄米がほとんどなくなってしまい、飢饉が起きた時に対応ができなくなってしまったというのが真相のようです。ある意味人災といえるかも知れません。

種蒔夫:世界的な大飢饉も見ても、大きければ大きいほど、それが人災だったことがわかります。以下ウィキペディアより。

李榮薫は産経新聞のインタビューに対し、「たとえば、金日成主席の死亡1994年から1997年までに金日成の墓のために使われた資金は9億ドル(約970億円)にのぼる。その金があれば、1995年から1998年にかけ300万人が死んだとされる大飢餓の人々を救えたはずだ。」と述べている。

1960年代には毛沢東の大躍進政策により大飢饉が発生し2000万〜5000万人もの死者を出した。

イギリス東インド会社が、支配するようになって、インド人は重い税負担に苦しんだ。また、インド農民に小麦など食糧をつくるべき畑で、綿花や綿布の染料に使う藍や、アヘンの原料となるケシなどの栽培を強制した。綿花は特定の一次商品を宗主国イギリスに輸出し、完成消費財を輸入するという経済構造に変質したため、従来の自給型農業が決定的な変化を被った。

その結果、田畑の減少や失業者の増加により、飢饉に際して多くの犠牲者を出す地域が現れた。 インド各地域で飢餓がおこっても、イギリス政府は、まともに救済はしなかった。一部の関係者は、トマス・ロバート・マルサス理論を主張し、飢饉は人口抑制のために自然の方法であることを主張した。

1770年のベンガル飢饉で死者約1000万人。1800年〜1825年大飢饉5回 死者約100万人。1826年〜1850年大飢饉2回 死者約40万人。1851年〜1875年 大飢饉6回 死者約500万人。1876年〜1900年大飢饉18回 死者約1600万人。1943年ベンガル飢饉で死者約300万人。イギリスによる過酷な植民地統治時代に頻発した飢饉の死者数は推計で5000万人を越える。

ウクライナ
• 1932年から1933年の間にソ連共産党による過酷な徴収により発生したホロドモールによって最大として約1000万人が餓死した。

ロシア
• スターリンによる農民集団化計画(コルホーズ)によって何百万もの農民がシベリアに送られた結果、1932年から大飢饉が発生し500〜700万人の死者が出た。1941年からのレニングラード包囲戦ではドイツ軍による900日の包囲で食糧の補給が途絶え、70万人近い死者を出した。

種蒔夫:日本の例も、世界の例を見ても、大飢饉は政治的な原因が大きいのです。政策の失敗、また、備蓄のための資金を他用する為政者、あるいは備蓄したものさえも金に変える為政者が問題なのです。当時、栽培技術や品種改良が未熟だったとしても、為政者が民のための政策をしていれば、飢餓死は回避できたでしょう。

しかし、同じようなことは、我々の現代生活の中でいまだに起きていることです。余っている食料品はあるのに、それでも餓死する人は絶えません。以下は世界の栄養失調人口の割合です。

世界の栄養失調人口の割合
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濃緑色:2.5%未満
黄緑色:2.5%から4%
黄褐色:5%から19%
朱色:20%から34%
濃褐色35パーセント以上
灰色:資料なし

見方を変えれば、江戸時代に餓死した農村地帯がアフリカに代わり、贅沢三昧していた武士・商家・米屋が先進国に代わっただけです。

以下ウィキペディアより。

食料生産
世界の食料生産総量は、世界中の人々を養うに十分な量がある。貧しい国の貧しい生産者は、家族がもはや生活できないほどの低価格を、商社(値段を決める権限を持つ)から強制されている。貧しい国の貧しい生産者は、家族の生活を維持するために必要な穀物は、商社に売り渡され、豊かな国の人々の肉類生産用家畜飼料にされている。(種蒔夫:現代のお代官様は商社のようです。)

流通・消費
豊かな国は、必要量以上の食料を輸入している。

飢餓輸出(きがゆしゅつ)とは、国内で必要な物資の消費を規制し、輸出に回して外貨を獲得すること。最終的には、国内の食糧消費が不足するほどの量を輸出し、飢餓を招く事態に陥ることから名付けられた。

日本の1993年米騒動では、日本国内で米が不足したため海外から米を輸入することとなった。そのため米を輸出したタイ国内では逆に米が不足、高騰を招く事態となった。海外では、当時の日本国内には米以外の十分な食料があったことを皮肉って、ある種の飢餓輸出と呼ぶこともあった。

アイルランドのジャガイモ飢饉は小麦がほとんどイングランドへ輸出され、小作人の主食がジャガイモに限られていたことが背景にあり、多数の餓死者が発生しても豊作だった小麦の輸出は通常通り続けられた。

種蒔夫:人命よりお金が優先されている世界的な傾向が、世界的規模の大飢餓を生み出すのです。この世界の不均衡を無視して生きている先進国の人間は政治家や企業人に限らず、我々も罪深いとも言えます。スケールが変わっただけであって、現代も江戸時代と変わらない状況です。我々日本人が茶色の国ではないことで、飢餓が遠い問題になってしまっているのです。

しかし、結局世界は弱肉強食であり、力のあるもの、富裕なものが勝ち残る世界です。貧しいものも、仮に裕福な側に回れば、同じような行動をしないでしょうか。弱肉強食は全ての生物に共通して起こることだとしても、人間だけは必要量以上に欲しがり、それ故に共存姿勢が希薄になるところが他の動物とは異なるところなのか。

とはいえ、米沢藩の上杉鷹山、白河藩の松平定信のような人間も存在したのですから、私利私欲に走らず、人類全体のために活動する為政者や企業家が世界中に生まれることを期待しつつ、

次回は飢饉が来たらどうするか?「飢饉 3」を。




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2017年11月16日

飢饉 1

飢饉に関して調べると、いろいろな情報が出てきて一言では済まなくなりました。それで今日は日本の飢饉の歴史に関するサイトを転載します。飢饉とはこれほど大変なのだと思わされます。以下より http://www.tanken.com/famine.html

飢饉の日本史

『凶荒図録』の世界
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犬と鳥に食われる人間(『凶荒図録』)

平安時代末期、世情の不安を背景に「六道思想」が流行しました。すべての生命は六道を輪廻するが、生前に罪を犯した人間は、そのなかの地獄道や餓鬼道に落ちるというものです。六道は上から「天道」「人間道」「修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」で、いわゆる人間世界の下には「苦の世界」が4つも広がっているのです。

平安時代に作られた国宝『餓鬼草紙』はその思想を反映したものとされ、たとえば餓鬼のおぞましい姿が描き出されています。

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『餓鬼草紙』(国会図書館HPより)

しかし、現実には、人間道はしばしば餓鬼道より悲惨でした。食糧不足になれば、たちどころにして飢饉となるからです。

『日本書紀』には飢餓の記録が頻出します。最古の記録は、崇神天皇5年で、「疫病により人民の半分が死に、飢饉となった」とあります。欽明天皇28年(西暦567年)には「郡国、大水により飢え、人がお互いに食べあった」と、いきなり食人の記録が書かれています。

1181年(養和元年)には、京都で4万2300人が亡くなった「養和の飢饉」がありました。鴨長明の『方丈記』には《築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者のたぐひ、数も知らず、取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目もあてられぬ事多かり》とあって、市中に遺体があふれ異臭を放っていたことがわかります。

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トリに食われる

1230年から数年間続いたのが、「寛喜の飢饉」です。極端な寒冷気候で、全国的な大凶作に。『吾妻鏡』には、《今年世上飢饉。百姓多以欲餓死》(寛喜3年3月19日)とあり、幕府は出挙米を拠出して救済に乗り出します。このとき、妻子や自分自身を「売却」する者が続出。幕府は当初これを認めませんでしたが、1239年、「飢饉の際の人身売買は有効」としました。

1460〜1461年(寛正元年〜2年)には、風水害や疫病で「人民の3分の2が死んだ」(『興福寺略年代記』)飢饉もありました。江戸初期には「寛永の飢饉」(1640年〜)が起こります。この飢饉により、土地を売る農民が続出、1643年、幕府は「田畑永代売買禁止令」を制定します。

いわゆる近世の3大飢饉とされるのが「享保の飢饉」(1732年〜)、「天明の飢饉」(1782年〜)、「天保の飢饉」(1833年〜)です。死者は享保100万人、天明110万人、天保30万人といわれます。ちょうど50年おきに起きていることから、「飢饉50年周期説」が唱えられるようになりました。

 享保の飢饉は、西日本をイナゴが襲ったことで起きました。このとき、伊予国・松山の作兵衛という農民が、父と長男が死んでもなお、麦の種を食べず、自分も餓死してしまいました。翌年、周囲の村はこの麦の種をまき、飢饉を切り抜けました。松山藩主は、後に作兵衛の功に対し米5俵を与え、追善供養を命じます。さらに40年後に、藩主は供養祭に毎年米1俵を与えるようになりました(『凶荒誌』ほか)。

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作兵衛の死

また、同じく松山では、餓死で死んだ遺体の首に100両かかっていたことが話題になりました。それだけのお金があっても、食べ物を買うことができなかったのです(『農喩』ほか)。ちなみに、享保の飢饉は江戸でも大きな被害を出し、その死者供養のため、隅田川の花火大会が始まったとされています。

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100両あっても餓死

天明の飢饉は、冷害の後に噴火した岩木山と浅間山の火山灰によって発生しました。東北の南部地方は特にひどく、犬は1匹500文、猫は1匹300文で売買されました。獣肉もなくなると、奥州の村々では、食べ物を求めて各地を放浪しはじめる人が増え、しかしほとんどが空腹と疲労で行き倒れ、鳥や獣に食われたとされます(『民間備荒録』ほか)。
 人間を食べた野犬は、その味を覚え、人間を襲うようになりました。しかし、人間を食った犬は、ことごとく人間に食べられました(当時は肉食禁止です)。

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獣肉を食い尽くす

別の村では、金持ちにもかかわらず、食料の蓄えがなく飢えていた農家がありました。立ち寄った坊さんに男の子1人を預けたところ、一家は全滅したものの、少年は助かりました。農家は旅費200両を渡すも、坊さんは受け取らなかったと記録されています(『饑年要録』ほか)。

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坊さんに救われた少年

このときは九州でも飢饉が広がっていました。穀物はもとより、琉球芋、大根なども食い尽くし、葛・金槌・スミラというえぐみのある根っこまで食べました。医者である橘南谿がある村に行くと、人があまりに少なく、その理由を聞くと、老婆が「みな8里(32km)先の山奥にスミラを掘りに行っている」と答えます。往復60km以上歩いて、ようやくマズイ根っこを手に入れることができたのです(『続西遊記』)。

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橘南谿と老婆

天明の飢饉では、食人の記録もかなり遺されています。青森県豊田村では、16才の少年が餓死した母と妹の死体を20日間かけて食べ、その後、15才の少年を殺害して食べました。山崎村(宮城県?)では、ある女が少年の死体を2人がかりで4日で食い尽くし、ついで1人の死体を自分だけで食べたとあります。この村では、父親が生きたまま子供の股に食いついていたとの話も残っています(『日本災異志』ほか)。

 参考までに、江戸時代後期の旅行家・菅江真澄の旅行記も引用しておきます。

《なおも助かろうとして、生きている馬をとらえ、くびに綱をつけて屋の梁にひきむすび、脇差、あるいは小刀を馬の腹にさして裂き殺し、したたる血をとって、あれこれの草の根を煮て食ったりしました。荒馬の殺し方も、のちには馬の耳に煮えたった湯を注ぎ入れて殺したり、また、頭から繩でくくって呼吸ができずに死なせるといったありさまでした。(中略)

 そのようなものも食いつくしますと、自分の生んだ子、あるいは弱っている兄弟家族、また疫病で死にそうなたくさんの人々を、まだ息の絶えないのに脇差で刺したり、または胸のあたりを食い破って、飢えをしのぎました。人を食った者はつかまって処刑されました。人肉を食ったものの眼は狼などのようにぎらぎらと光り、馬を食った人はすべて顔色が黒く、いまも生きのびて、多く村々にいます》(『菅江真澄遊覧記』天明5年8月10日)

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父親の太股に噛みつく子供

天保の飢饉は、洪水や冷害による大凶作で、やはり東北では被害が大きくなりました。このときは、1文で米7粒しか買えなかっただの、小判でおにぎり3個買ったが、売った人間は死に、買った人間は生き残ったなどのエピソードが遺されています。また、乳児が母のおっぱいや父の太股を噛みきり、困ってその子供を海に捨てた、などの話もあります。

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乳房噛みきり

この飢饉では全国で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、大坂では大塩平八郎の乱が起こりました。
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「米穀高値に付 困窮之人多く」と書かれた大塩平八郎の施米文

明治18年、愛知県令(知事)だった勝間田稔の命令で、享保、天保、天明の3大飢饉の惨状を描いた『凶荒図録』が刊行されました。小田切春江が編集、木村金秋が挿絵を描いています。この本は「飢餓に備えよ」という啓蒙的な内容ですが、これまでのさまざまな飢餓話がイラスト化されているのが特徴です(今回は画像の多くを『凶荒図録』から転載しています)。

それまで『民間備荒録』などわずかしかなかった飢餓の絵が、この本によって大量に流布することになりました。飢餓話は、後世に出た本で次々にコピーされ繰り返し「ネタ」として使われていきますが、特にこの『凶荒図録』によって、飢餓の代表的な話が固まったといえます。

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放浪者たち(『凶荒図録』)

本の冒頭は、二宮金次郎(尊徳)が飢饉の前兆に気づくエピソードから始まっています。天保の飢饉の前年夏、金次郎が栃木県二宮町(真岡市)でナスを食べたところ、その味が秋ナスのようでした。

《是(これ)、陽発(ようき)の気薄くして、陰気、既に盛んなり。何を以てか米穀熟するを得ん。予(あらか)じめ非常に備えざれば、百姓飢渇に及ばんとす》

金次郎は米不足を予測し、農民にヒエをまくよう勧めました。こうして、周囲が飢饉に襲われても食料不足に苦しまなかったのです。

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二宮金次郎

『凶荒図録』の最後は、古橋暉皃(てるのり)が農民を集めて飢饉への準備を促したエピソードが書かれています。天保の飢饉を経験した老人を招き、「塩不足で、塩気のあるむしろを刻んで煎って食べた」という話を聞かせたのです。だからこそ、飢饉に備えよ、というところで完結しています。古橋は、日露戦争で米を備蓄したことでも知られます。

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古橋暉皃

明治になって、大規模な飢饉は減りました。それは、交通の便の改善や、多様な品種の栽培が可能になったこと、農業技術の進歩などが大きな要因です。それでも、東北を中心に何度か飢饉が起きました。

そして、昭和に入った1930年から1934年にかけて、東北で大規模な飢饉が発生します。昭和東北大凶作とよばれるもので、女性の身売りが頻発します。これが世界恐慌などと相まって、戦争への契機となりました。食べる物がなければ、人は平気で道を踏み外すのです。

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警官と村長に身売り相談



posted by 種まく旅人 at 14:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

刈田さんからの栽培報告

6034番の刈田さんから栽培報告がきました。

今年のハッピーヒルはあまり上手くいきませんでした。
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種蒔夫:肥料不足なんですかね。僕も専門家ではないので、よくわかりません。

旅の助言ももらいました。
「私の長い1人暮らしの経験から言うと車上生活でも自炊は難しくありません。
簡単です。自然食のインスタントラーメンと餅 野菜としてワカメか昆布 これなら難しく無いと思います。」

種蒔夫:それに加えて、玄米も炊いたりします。しかし、問題は心身ともに疲労していると調理する気になれないことです。さらに、食事問題より、同じ姿勢を長時間することから来る膝の痛みです。テニスボールを挟む治療法を見つけたので、試みたいと思っています。それから、車の不調です。最近は調子いいんですが、いつ機嫌が悪くなるやら。

刈田さんとお会いした日のブログ日記は以下
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/449489221.html

posted by 種まく旅人 at 13:17| Comment(0) | みなさんからの栽培報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月15日

9月27日 上越市(新潟県) 8707ー8708

崎村家を出発して、20キロほど走って休憩後に再び故障。通りかかったトラックの運転手さんに頼んで、バッテリーをつないでもらいました。が、やっぱりバッテリーの問題ではありませんでした。この方に8707番。

その後、レッカー車がやってきて、
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再び日産へ。レッカー車の運転手さんに8708番。日産に「2、3日前に三条市の日産で修理したばかりで、、」と事情を話すと、日産の負担でレンタカー(新品セレナ)を貸してくれました。
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新車レンタカーに乗って、三条市の中央農業研究センター(農業試験場)に行きました。福島県で出会った長嶺さんが「新潟県に来たら、おいで」と言われていたので伺い、試験場内を見せて頂きました。
長嶺さんと出会った日のブログは以下
http://happyhillcontest.seesaa.net/article/450732253.html
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遺伝子組み換えの研究をしている頃(10、20年前)には加藤登紀子の一団が反対運動にやってきたことがあるとか。遺伝子組み換え研究者の個人名を拡声器で呼びかけるとか、、、相当に激しかったみたいです。
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それが功を奏したのか、あるいは日本人には遺伝子組み換えの評判が良くないのか、遺伝子組み換えの研究は下火になったそうです。
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夜は、長嶺さんにご馳走になりました。
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三種類のお酒を選んで飲める「お酒コース」がありました。日頃は紙パック酒しか飲めない私は、どの酒もうまい、、、。ありがとうございました。
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うまい酒を飲みつつ議論はかなりヒートアップ。私は無農薬、無化学肥料、在来種、固定種を支持しますが、農業試験場はそれを研究するところですから、真っ向から対立します。長嶺さんは「もし農薬、化学肥料、F1種がないならば、餓死者を出すであろう、と。現に江戸時代にあったような飢餓で死ぬことは、現在ではあり得ない。」と

こういう意見を初めて聞いて「なるほど」とも思いましたが、そもそも江戸時代の飢饉による飢餓死自体を詳しく知らないので、反論どころか意見も言えませんでした。これは調べねばならないと思いました。


posted by 種まく旅人 at 12:43| Comment(0) | 種受取人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする